2026年8月31日月曜日

おどうさんの話と同じ

それに、ほとんどの人が宣教地に出ていくのは若い人と思いますが、自分が覚えていたのは「永田おじい」でした。デピュテーションの時に話しましたが、おじいちゃんは退職後であったにも関わらず、沖縄の教会の青年が離島伝道を計画した時、一緒に行くと言ってしまったのです。


おじいちゃんは方言で証ができた

ところが島では、一握りの年配の人たちが集まって、彼らは島の方言しか分からなかった。それが沖縄本島の年配の人が分かる方言に通訳された。長田おじいちゃんは、これが理解できた。伝道チームの若者は体が丈夫でトラクト配布ができても、肝心なコミュニケーションは、長田おじいちゃんに頼るしかなかったのだった。 

年配の人は6人ぐらい集まっていた。通訳を通して分かって来たことは、こういうことだった:自分たちが子供の頃、オドウというクリスチャンが島にいた。他の大人は救いの話を聞こうとしなかったので、オドウさんは、お菓子屋を開いて子供を集めることにした。子供たちに讃美歌を教えたり、聖書の話をしたみたい。親には禁じられたけれど、それでも子供たちは時々聞きに行っていたそうだ。だけど、誰も救いの決心をしないまま、オドウさんは死んだのです。彼の努力は見える所、何の結果も無い、無駄なものでした。 

心に福音の種が蒔かれた子供たちは、大人になっても、忘れられない、もっと知りたいと思うようになった。6人が毎週集まって讃美歌を歌って、神様がオドウさんの話を教えてくれる誰かを送ってくれるよう祈り、あの「子供たち」は80~90代のおじいさん・おばあさんになるまで続いた。長田おじいさんの口からでた「福音」...これは、オドウさんが教えていたことと同じじゃないかと、心の準備が、されていた。 

「こういうわけで、『ひとりが種をまき、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。

 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなた方を遣わせました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(ヨハネ4:37,38) 

道の安全は主からのものでした。「もう少しで危ない所だった」という経験は今5つ思いだします。到着する5分前に車の下に穴が開いたり、高速道路を下りたすぐ後パンクしたり、雪でスキッドした時前の車にぶつからず道端のサインポストに止められたり、 

曲がりくねった田舎道が急に交差点に出てジョイスがハンドルをいっぱい回したためにキューッつとものスゴイ音がし、見たら2台後ろからパスしようとした車が急ブレーキし、グルグル回っているのを見て一瞬間、何が起こったのか、分からなかったり 

デピュテーション中の「事件」は指をドアに挟まれた時だけです!

2026年8月30日日曜日

ダディーの背中

デピュテーションの2年目(私の1年目)は、父母は沖縄に帰りましたけれど、家賃は3人で分けて払っていたので安く済みました。ジャニスとジョイスのサポートも少しづつ高くなっていたので困りませんでした。父がファーロのために使っていた車も私たちの物になって、デピュテーションを始めるほとんどの宣教師のように車をてにいれることなど考えなくても良かったのです。スライド・プロジェクターも、テープレコーダーも、映写機台も、展示テーブルも揃っていました。

計画通り2年間でジャニスを沖縄に送ることができました。アパートの契約更新で家賃が上がる時、母教会のクリスチャン教師が私たちに一緒に住みませんかと、言ってくれました。それで、主に感謝し、この人の家に引っ越しました。(2年前アメリカに帰った時も、この人の家に泊まることになりました。東京まで小包を送ってくれたりしました。)

父にいつも言われていました。宣教師になるためには、3つのことが必要だと:1)ねばりづよさ。諦めないで、ただやり続ける。地味な、面白くない、結果を結ばないように見えるものでも、黙ってする。2)なんでもする(多才というのか、柔軟というのか、とにかく、何でも、いつでも、なんとかする。3)ユーモア感覚(ある状況に対面するとき、笑うしかない、そうできない者は泣いて宣教師を止めてしまう。

デピュテーションの経験でこれら3つのことは訓練されたと思います。

ダディー:「なんでも。ペンキ塗りも!」 

教会にペンキ塗りの手伝いの手伝いをしたことがあります。(コレ、宣教師のする仕事?だけど、よく考えてみると、父は軍の捨てる建物の材料・ペンキで、宇堅と首里の教会を建てたりしました。平川の教会も、昔の診療所を修理して無料で使っていいということで具志川の教会になって…全部、ダディー、ペンキ塗りしてたのね。) 

私たちの集会の次の日は、時間が空いていたので、一日長く泊まり、教会奉仕をさせて頂きました。着物を抜いてエプロンと普段着で一日ペンキ塗りをしました!

他の教会では、集会の途中、牧師が説教台から、「説教の時間、大城姉妹は子供たちに、お話をしてくれます。」と、発表しました。慌てて何か準備することがありました。

また別の教会は、他のうるさい家から離れてゆっくり休むことができる、伝道者・宣教師が泊まる特別な小さな家がありましたが、そこにはアイロンがひとつもありませんでした!次の日の服にアイロンをかけるため、鍋やキュースにお湯を入れ、服の上にのせたりしました。 

ベッドに隠れていたハチに刺されたり、雪で教会にとじ込まれたり、教会の人が描いてくれた道が集会の日まで工事で変わったり、証を始めようと思ったとたん電気が消されたり(スライドプレゼンテーションが先だと思われていた)...デピュテーションは、色々ありました。 

2026年8月29日土曜日

母の祈り

集会の前にひどい頭痛を感じることがいっぱいありました。3人同じぐらい経験したと思います。いま考えてみると、サタンの反対だとしか思えません。というと、祈って「頭痛のまま」教会に出かけ、プログラムに入ったとたん、痛みが止まったからです。(面白いことに、席に戻った時頭痛が帰って来たことがありました!)具合が悪くて集会に出られなかったのは、2回だけでした。それでも、3人いたので、すくなくて一人行ったので集会は続きました。 

ある教会で集会が3つありました。最初の晩、ジョイスは高熱を出し、私は家に残ってジャニスが一人で集会に行きました。シンプルな婦人の集まりだったので、一人で十分だったと思います。ちょうど泊まっていた人の友人が医者だったので、電話し、ジョイスのことを相談し、薬を送ってもらいました(構成物質?) 

頭痛・高熱・骨折もあった! 

次の日まで熱はある程度さがったのでジョイスを一人家に残し、ジャニスと私が教会に行きました。3番目の集会は、ジョイスも来ることができました。この教会は、母が独身の時(75年以上前)サポートし始めた教会です。私が結婚すると発表してアメリカに帰ったとき、この教会の女性たちはシャワーを準備してくれました! 

もう一つの教会では病気でなく、面白い事件が起こりました。準備が終わり、集会の前に少し休もうと女子トイレに行きました。アメリカの部屋は大きくてドアもかなり重いものです。ちょうつがいに圧力を使って開かれたドアを閉めるポンプ見たいな物がついています。とにかく、お手洗いから出て来る時、急に動けなくなりました。 

私は左手の指一本がちょうつがいに挟まっていたのです!後ろに歩き、右手でドアを少し開けました。指は、電気が通っているようにビリビリ感じました(痛みとは違う感じ。)冷たい水を流し、指を流れの下に持つように言われたので、そうしました。すぐ隣に立っているジョイスの声が遠くなりはじめたので、「ジョイス、声、聞こえない!」と叫んだのを、覚えています。 

あとで説明してもらいました。骨折の場合、からだ全体の血が痛んだ場所を守るため、一斉にそこに流れて自然なクッションを作り、骨を保護する。結果は体中が浮くような気持ち。なるほど。教会の副牧師の奥さんは、看護士だったので、隣の部屋で手当をすることになったけど、私は歩きながら、足が地面に着いているのが感じられなくなり、一瞬意識を失うところでした。 

隣の部屋で少し休み、指を氷のうで包み、集会に出ました。最初の会衆賛美が終ったところだったので、私たちは、すぐプログラムに入り、何もミスしませんでした。勿論、ジョイスと一緒のピアノ・デュエットは少しの間休むことになりましたが、三味線は、工夫して他の指を使い、弾くことができました。レントゲンで骨折が確認された後、ギプスをはめたのですけれど、それでも三味線は弾き続けました。 

前にも演奏したことがある「母の祈り」だったのです。

 

救い受きたる  くぬわみや

親ぬ真心    悟とやびたん

くぬ心ゆ歌に  書きらわ聞きみそうり

うまんちゅうよ 聞きみそうり

 

母は私たちの為に祈ったのかな 

私たちは婦人会のグループに何回も話したので、この歌も歌い、母のための感謝、また沖縄のクリスチャン母親のことを話しました。 

日本人の宣教師が来るということを聞いて教会にくる日本人もいました。沖縄からくる人は、方言の歌を聞き、涙を流していました。ジョイスはこのような人を2人救いに導くことができました。今はどうしているかな...私たちの地上での労苦の結果は天国に着くまで完全に分からないでしょう。 

子供のときに母に話したことを覚えています。 

「私、宣教師になってもいいけど、マミーは、私たちが宣教師になって沖縄に帰って来ることを祈ってるんでしょ?」

「マミーは娘3人が神様の導きに従うことを願ってるのよ。」

「でも、気持ちとしては、帰って来て欲しいんでしょう。そう祈っているんじゃない?」 

「さあ、どうでしょう。神様が帰ってきて欲しいと言うなら、帰って来て欲しい。別な所に行きなさいと言うなら、来て欲しくない。」 

3人が沖縄に帰るように導かれるまで、そう祈っていたことは言ってくれませんでした。 

3人別々に、違う方法で沖縄宣教の召しを受けたのです。私の高3年のことはすでに話しています。ジャニスは、大学2年の後、沖縄のMAP伝道をして、帰って来るべきだということがはっきりわかりました。ジョイスは大学を卒業しても召しがはっきりしていませんでした。ジョイスの性格に意外な頑固なところがあります。 

時々若い人は、親の足跡あとについていくだけでなく、自分の行く道を決めたいと思う人がいます。ジョイスはこれも間違っていると言っていました。結局は、親の反対の方向を選び、実際は親に影響されているのだと。神の導きを確認し、その道を歩みたい、親がそれを賛成しても反対しても、関係なく正しい道を見つけ歩みたいと、言っていました。大学卒業後、沖縄のマラナサ・バプテスト・アカデミー(ジャニスと私が高校を卒業した所)で2年間教師をしながら、自分で宣教の召しを確認し、沖縄に帰って来ることを決心しました。母が天に召される前、3人沖縄に戻って来ることになっていたことは感謝です。 

でも、宣教師になって、宣教地で必要なものは、いま、デピュテーションで十分身につけた方がいいと、ダディーが言っていました。

2026年8月28日金曜日

余り過ぎじゃなかった

一緒に入団したの!

(エッドとジャンも見える?) 

ある朝、CSが始まるちょっと前、私たち3人が3つのクラスを教えてもらえませんかと、お願いされました。ジャニスは三味線とか大きい、簡単な資格教材になるような物を持っていちばん年下のグループに行き、ジョイスは面白く説明できるものを小学生のグループに持っていき、私は中高生のクラスを教えることになりました(資格教材なし)。教師が出席をとったり、私を紹介している5分の間、あたまの中でレッスンを準備しました。(そう。あのギデオンの物語だったの!)でも、準備時間は、それだけ。祈って心を沈める時間もありませんでした。 

話し始めの、途中で時間はまだまだいっぱいあり、話すことはほとんど無くなっていることに気がついて、あせりました。次は何のことを話そう、と。心の備えをしていないことを感じ、「神様、済みません!今祈りますけれど、どうぞこの者を用いて下さい!今とても困っています!」と祈りました。でも、こんな勝手な祈りはきいてくれるはずはないと、思いました。時計を見ると、時間がたっぷり残っている。 

時間をうめるために、自分の中高のときの証をしました。冷や汗をかいていた様に感じました。クラスが終ったとき、泣きたい気持ちになっていました。レッスンは全然メチャクチャだった。もっと準備の時間が欲しかった。クラスの生徒はたぶんうんざりしただけだろう。この様なことをジョイスに話したことを覚えています。 

それが、数カ月後、この教会から手紙が届きました。 

「私は~教会の中高クラスの教師、Mr. ~です。覚えているかどうか分かりませんけれど、~月~日に私たちのCSで話してくれました。その時、ジューンは自分の中高時代のことを分かち合ってくれました。そのクラスにいた生徒から聞いたことですけれど、かれの友人がちょうどそのとき「失望の沼」を通っていたところで自殺のことを考えていたそうです。

ジューンの証を聞いて、そのことを考え直すところか、いまはフルタイムに献身するところまで進んでいます。」 

「私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」

「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」 IIコリント12:9,10

2026年8月27日木曜日

デピュテーション・プラン

妹の卒業までは、なんとかなるけれど、その後の資料は、何がどうなっているか、順序がわからない。父・母のファーロ集会、私たちのデピュテーションミーティング、私のボブジョーンズ勉強が、全部ごっちゃ混ぜ。もうきれいに分けようとするのは、あきらめた!そんなの、どうでもいいよ。。。ね?とくに、自分のボブジョーンズ訓練は、宣教師になるための準備だったはずだから。本の「そのまえに」みたいなものじゃない?

大城家の「デピュテーション作戦」は、こういうものでした:最初の1年は、父母がファーロ中でアメリカにいるので、同じアパートに住み、父母が家賃を払ってくれる。(それで、デピュテーションの始めが月に$10だけのサポートても、全然困りませんでした。) 

1年目:ファーロ・デピュテーション     2年目:3人でデピュテーション 開始     

私のボブジョーンズ卒業式の日にシュルツ家の玄関にピンポーン。おじさんとおばさんが私の親代わりになってシカゴから来てくれました!(ジョイス、このように用いられて、ありがとう。彼女が悪い証になっていたら、こういう結果には、ゼッタイなっていなかったでしょう。) 

2年目から3人いるから家賃は3人で割って安くなるけれど、3人デピュテーションを済ませるのは、時間がかかる。デピュテーション・チームを組むのは、ジョイスと私が一番よく合うので、ジャニスを先に送る。ジョイスのサポートを次に集める(私より1年前から始めたので少しは既にあるはず。)(車を運転しない私の必要サポート額が一番低い、集め安い、最後に始めても、問題ないはずということでした。 

3年目:ジャニスを先に送る

実際、教会も助かったと思います。3人の宣教師を見て、沖縄伝道の為に重荷を持たされても、誰をサポートすべきか分からなかったら、困ったと思います。私たちの方から「~にサポートを送ってもらえませんか」とお願いした方が、協力したい教会も動き安くなったのではないかと思います。

2026年8月26日水曜日

アルミイーゼル?!

シュルツ婦人と 

ボブジョーンズ大学の最後の1年は、寮でなく、シュルツ家族と一緒に住むことになりました。Jackieさん(お父さん)は、私のデピュテーション用チョークアートイーゼルを作ってくれました。チョークとか他の道具も入れて持ち運ぶことが出来る、ポータブル、しかも頑丈なウッズケース、スゴク便利な、よく考えて作ったものでした。シュルツさんたちは、私を娘のように愛してくれました。休学するために探した所が、こんなステキな祝福になっていました。神様、ホントにありがとう。

*   *   * 

学校に帰って来て最後の一年間、自分の気持ちにちょっとビックリしました。心のどこかには、まだまだボブジョーンズで勉強したいことがいっぱいあるという気持ちがありました。一方、特に自分は数回宣教地に行ったり、実際の仕事をしたりしていたので、早く戻りたいという気持ちがあって、ボブジョーンズには居られないという、落ちつかない何かが動いていました。


   ジャニスの卒業、私はあと1年!      宣教団体入団口頭試問語、ピクニックで休憩 

これを書いている時に気がつきました:その最後の一年の写真が、ほとんどありません!沖縄宣教のことで頭がいっぱい、大学生活のことは、あまり興味がなかったみたいです。 

ジョイスは2年間短期宣教師として沖縄の学校で教師をしている間、フルタイム宣教師として帰って来る導きが与えられました。ジャニスが卒業した年、ジョイスはアメリカに帰っていました。妹、姉、母も宣教団体に入るので、私は学校があと1年残っていますが、例外、家族と同じ年に入団が認められるとバプテスト・ミド・ミッションは言ってくれました! 

団体に入るための口頭試問に一番ためになったのは、重に2つ:

1.父母の1975年にとった行動。自分の信仰・立場を考えさせられ、聖書を自分のためにさぐり始めたからです。

2.ボブジョーンズでの教理の授業とローマの授業。知識的質問の答えは大部分この2つの授業で学んでいました。 

順序がおかしくなったと言ったでしょう?

やはり、あの霧みたいな問題で色々考えさせられたのが1番だから、そこまでは、この本で先に伝えたけれど、今度は上記のボブジョーンズでの教理の授業のこと。バプテスト・ミド・ミッション入団口頭試問の全然前だったんだけど、言ってなかった。 

実は、私は、授業中、先生が皆に難しい教理的質問をするときに、参考のため、いつも自分の日本語の聖書を開いて調べていたの。数回、他の返事がない時、日本語を読んで、そっと手を上げて「いいですか?」と新改訳の角度からの説明を言ってみた。嬉しいことに、先生の求めていたことだった。 

 

新改訳?              けっこう以外な役もあった! 

ある授業後、教師に引き留められた。 

「ジューンが使っているのはどういう訳かね。」

「この参考?沖縄の教会で使っている、日本語の新改訳というものです。」見せました。珍しそうに聖書のページをめくっていました。学校は英語の欽定訳聖書を使っていたので。 

「日本語?」先生は笑顔を見せて聖書を返してくれました。「じゃ、私は英語のものにするけれど、ジューンの使っているもの、とてもいい訳みたいだよ。」 

これを言うの、忘れていた:日本語聖書の、私のもう一つの「使い方」:今はコンピュータですぐ調べたりすることができるけれど、当時はそれが出来なかったから、私は変なことをしたの。日本語で言葉が分からなかったときに、同じ単語が出て来る聖句を、新改訳で調て、時々は、どういう言葉が使われているか分かったの。 

これは、勿論、ある程度でしかできないことだけど・・・それに、宣教師に日本語学校ではゼッタイ、ぜったい勧めません!ノーグッドです!

また順序違反:ジャニスの卒業写真を見せたばかりなのに、このことをします:一緒に授業をとったことがあるのです。どっちも誰とも付き合っていないのに、いつかは役にたつかもしれないということで、「牧師夫人」という授業を受けました。 

教師2人で教えられることになっていましたけれど、2人目は都合が悪くなって彼女の代わりにジョーンズ婦人(学長の奥さん)が教えることになりました!最初からある程度決まっていても、困る状況をさけるために、公にできなかったのではないかと思います。とにかく、その時授業を受けていた私たちは、思いがけない祝福を感謝しました! 

ジャニスと私は、数千人の教会にいくつもりは、ありませんでした(あの牧師夫人クラスの多くの女性たちは、そういう教会を牧会する人を支えることになると思います。アメリカの教会は大きいので。)でも私たち2人は、これからの女性たちを影響しよう等考えていませんでした。ジャニスと私は、沖縄に向かうただの宣教師でした。

それなのに、みんなと一緒に一学期ずっと、ジョーンズ婦人の素顔を見て、彼女の生声を聞くことができました。 

沖縄に向かうだけ。 

沖縄の姉妹が「母の祈り」という賛美を沖縄の姉妹が方言で作詞したものです。私はボブジョーンズでΘMΘという、「社会」に属していました。スポーツだけでなく、音楽・スピーチ・ドラマと、大学生活に関するものには、チームをだすようなものです。このΘMΘの集会で「母の祈り」を沖縄三味線伴奏で賛美させてもらいました。「沖縄宣教を忘れないで祈って下さい。」と、心の中で泣いて願ったのを覚えています。 

日本語が教えられていたら、受けていたと思いますが、残念ながら、なかったので、言語選択としてスペイン語を選びました。感謝なのは、その教師が言葉が上手になれなくても、

スペイン語で聖句を暗唱するのは、すごく厳しかった。外国語をキレイに話せるのは賜物かもしれない。だけど聖書暗記?誰にでもできるはず、と彼女は言った。 

Claudia Loftis 

その冬休み、メキシコから来た人に会って、証しようとした時のことを覚えている。普通に話そうとした時は、結構つまづいたりしたけれど、聖句引用のところにきたら、スラスラに言えた。あの先生のおかげ、完璧に覚えていたからだった。 

いま思ってみると、個人伝道でも、何でも、やっぱり、御言葉がはっきり伝えられ、その後は、聖霊に委ねて、聞いた人の心の中に聖霊ご自信が働くのを祈ればいいのね。自分のことばは、あまり関係ない、かえって、邪魔になる方が多いんじゃないかな。私のスペイン語の先生、それを理解していたんじゃないかな。 

Si yo hablase lenguas humanas y angelicas y no tenga caridad...ホラ、40年以上なっても、まだスラスラ出て来るの(コリント第一13章の始まり「たとい、私が人の異言や、み使いの異言で話しても、愛がないなら…」) 

言うの全く忘れていた。この先生なの。私の健康のことを心配して、沖縄まで励ましの手紙を送り続けてくれたの。その時は電子メールがなかったから、これは紙と切手の手紙だった。 

この先生、天国ではスペイン語で喋るだろうと言っていた。私はいつも抗議したかったけれど、彼女がスペイン語で話したいなら、スペイン語でいいと思う。 

私は言語の専門家では無いけれど、何語でもいいから、福音を伝えて神様の愛を伝えて、罪の罠から逃げ出して命の明かりを伝えたい。特別音楽の天才では無いけれど、心が重く、暗く感じて、そして喜び踊るぐらい分からせる音は組み立てることができると思う。ちゃんとした美術の学びはない(一番最初のチョークアート授業のサムメイルを作って来る宿題に、初めてだったので、Dをもらっちゃった!)あちゃ~!!!だけど、それでも、美術は好き、何らかの賜物は、神様に授かっていると思う、神様の真理を伝えるために。

~ということで、シュルツさんが作ってくれた頑丈なウッズケースで、チョークアート伝道を、デピュテーションですることにした。そう、あと一年大学が残っていたけれど、姉妹と一緒に団体に入っちゃったから、宣教師としての重荷を分かち合っていたの。 

チョークアートのことがあまりよく知られていないときに勉強したので、材料は結構お金が掛かった。大学生は、全部をいっぺんに買うことはできなかったけれど、少しづつ買って、卒業するまで、全部揃っていた。勿論、全部新品ではなかったので、中古品を集めたように見えたかもしれないけれど、私たちにとって、苦労して手にした大切なものだった。 

ジョイスとジャニスと一緒にデピュテーションを始め、幾つかの教会で宣教の重荷を、チョークアートで話したあとだった。ボブジョーンズで、同じ教師にチョークアートの授業を受けた人が、あの教会に来ていた。 

自分も宣教の重荷はあるけれど今は海外に行けないと、彼はいった。工場が要らないアルミニューム・スクラップを溶接してイーゼルを作ってみたけれど、ジューン、代わりに海外で使ってくれないかなと、プレゼントしてくれた。 

当時のチョークアートのアルミ製ポータブル・イーゼル(伝道用)は$1000だった。シュルツさんの作ってくれたウッドケースで感謝していたのに、これまでも!このアルミ製イーゼルを、飛行機で日本に送ることにした。ということで、写真のアルミイーセルは、

この思いがけないプレゼント、日本語で伝えた6つのチョークアートは、この時もらったものです! 

アルミイーゼル?!

2026年8月25日火曜日

ほんとにCだった

ボブジョーンズに帰ってからの2年間は、かなりぎっしり詰まっていたので、述べる順序は全然おかしくなってしまうかもしれません。 

宣教地のことを考えながら(宣教師として帰る時に、何が必要かと思いながら)色々な科目を選びました。当時は未だ使われていたため、タイプライター技術など。資格教材・人間観文学・現代(当時の)倫理問題・もちろん、聖書の授業をいっぱい受けました。 

記憶に残るのは、授業・テキストの内容ではありません。例えば: 

一つの提出が間に合わなかった時、うそで言い訳しようとしました。寮に帰ると自分は心に落ちつきが全然なくて、提出物を済ませ翌日持って行った時、先生にうそを告白するしかありませんでした。「そうかもしれない、祈っていましたと、」先生に言われたとき、聖霊のとがめから離れられなかった理由が、この先生の祈りの答えだったことが分かったのです。(ちなみに、その提出物は正当理由無しで遅れて提出されたので、Fの成績を受けることになりました。) 

でも私はAの成績より、Fををもらって心の平安があった方がいいと学びました。勿論、ベストは責任を最初から果たしてレポートを提出することです! 

別の授業で、これの表れだったのか、私は宿題が間に合わず、とても遅れて、Forsythe先生に謝って手紙(今回はうその言い訳はしようとしませんでした。初めから送れたのは自分のせいだと認めました。)と一緒に恥ずかしく出しました。ねずみのように、授業後そっと逃げて行くつもりでした。ところが、授業中(みんな試験を受けていたのです)、先生は私の提出物に目を通してくれました。 

Forsythe先生 

終わりを告げるベルが鳴ると、先生に呼ばれました。提出されたものは、遅れているから、本当はFより高い成績は付けられないことになっているけれど、内容はいい、よく考えて時間をかけたと見えるということで、今回は例外にしてくれる、Cにすると言ってくれました。「ああ恵み!」 

大学一年生のほとんどは、初めて家族から離れたティーンエージャー。ということで、一年生は先生のFaculty Parents(教務員両親?)が与えられ、ボブジョーンズにいる間、アットホーム雰囲気が味わえるように、時々はキャンパスから離れ、教師の家でピザ・パーティー、スパゲティデイナーや裏庭でバーベキュー、夕方はリラックスしたボードゲームをリビングでインジョイできるようにされていた。「~先生」の「子供」は、大抵2~3人いた。私はボブジョーンズに行った時、このように「いとこ」があと2人できた。(というより、親の子供だから、兄弟と言ったほうがいいのかな? 

スポーツは、大学が最後だろうと思って、力いっぱい参加しました。 

これをちょっと入れさせてもらいます:私の行ったパブリック・ハイスクールリーグの女性アスリート達は、審判にバレないようによく反則をしていました。ボブジョーンズではそれが全くなかったので、1年生として来たばかりの私は、変に聞こえるかもしれませんが、ここでは、負けても気持ちいいと思ったのを覚えています!

あ、さっきはバスケの話。これ、ソフト。後ろでバッティング練習しているのは私! 

ソフトはかなりできるつもり。体育授業の時、フィールドリング練習する時に、クラスは2つに分けられ、教師は1つのグループを取り、もう1つを私がお願いされた。ところが、学期の終わり見ると成績はC だった。どう考えてもA.少なくてもB。でもC?何かの間違い。自分はうますぎる!だって、あの期末試験は、冗談のように、簡単だったし! 

先生に電話することにした。ノートで隣の生徒の成績を間違えて私の欄に載せたに違いない。笑って、直してもらおう。 

「ジューン。連絡がいつ来るかと思っていたの。」

自信満々の自分があの期末試験の記入の仕方がメチャクチャだった為、Fだった。 

ガーン。本当だった。ゆっくり、見せてくれた。質問を読んで、何が求められて、返事を、どこにどう書くか明確になっていたにもかかわらず、私はさっと、最初に頭にきた、いちばん簡単なものをそのまま紙に書いた。答えは間違っていなかったけれど、場所が全然違っていたため要求されていたところには返答は何もなかった・・・ 

何度も見て、言葉が出なくなっていました。 

先生が言ってくれました:「実力で、ジューンは、Aだけど、期末試験Fが成績の50%と決まっているから、Cにしかできませんでした。ジューン、本当にごめんなさいね。」 

自分自身の能力・知性に自信をおくのでなく、クリスチャンは、いつでも遜って主と共に歩むことを身につけなければならない。祈ってこれを教えてくれるボブジョーンズの教務員たちを、ありがたく思います。 

*   *   * 

私が1年生として入学したとき(1977年)、姉のジョイスは3年生で、結構名前が知られていた。私は「ジョイスのいもうと」だったの。休学して帰ってくると妹のジャニスが4年生になっていて、彼女の名前が知られていた。そう、私は「ジャニスのおねさん」だったの。失敗しても大丈夫、姉妹の影に隠れるだけでOKだったと思う!

*   *   * 

1981年の冬休みに、父はファーロのためにアメリカに帰っていたので、ボブジョーズまで来てくれました。ジョイスは卒業して沖縄のクリスチャンスクールで教師をしていましたけれど、ジャニスと私は、まだボブジョーンズにいました。父と一緒にフロリダ州に行き温かい冬を過ごすことにしました。(沖縄のように?) 

クリスマス・イブの日に、父は、私たち2人の方に手紙をポイと投げ、「ホラ、いいもの上げる。読んでごらん。」と、言いました。漢字は読めない私たちは、日本語の手紙だったので、そうとう苦労しましたが、なんとなく、分かりました。 

「島尻先生・・・ダディーと一緒に導かれ・・・沖縄の伝道を一緒にする」...結婚するということだったのです! 

ワー!ダディー本当によかったネ! 

私は1年前の経験で心の準備が既にされていました。「マミーが亡くなって、こんなに早く?」という、気持ちは少しもありませんでした。ダディーがマミーを愛していたことは信じて疑ったことはありません。マミーが亡くなってから、ダディーが、何となく「不完全な者、何かが足りない、」ように見えて、再婚の相手を祈っていたのです。それが島尻先生になるとは...自分にとって、もっといい相手は、考えられません。 

ダディ-は、私たちの嬉しい姿を見て、ほっとしたと思います。その日から、以前のダディーの様に冗談を言ったり、歌ったりするようになりました。 

母は、生きている時、私たち娘3人に言っていました。「私が亡くなってから、ダディーには助け相手が必要になるから、再婚したいなら、させてあげてね。」ダディーにも、島尻先生のことを考えたらどうですかと、言ったそうです。 

父が再婚したとき、私たち3人は、ハワイのおばあちゃまに手紙をもらいました。「キヨさんを『おかあさん』と、よぶのよ。」と。母が亡くなったとき、おばあちゃんは父にこう言ったそうです: 

「どちらかが召されるんだったら、君子でよかった。昇さん、あなたは沖縄の伝道を続けなければなりませんからね。」 

「君子で良かった。」 

おばあちゃまは、自分の娘の命より、沖縄での福音宣教を大切に思っていました。

2026年8月24日月曜日

「何も聞いていないの?」

マミーと沖縄で

部長の姪っ子ジャニスもサマースクールにいました。「ジューン、ちょっと話があるんだけど。」寮長のようなものになっていたジャニスの顔は、何か心配そうでした。空いている部屋に行き2人きりになりました。「びっくりしないでちょうだい。あのね、うわさ話を聞いているんだけど、これはジューンに伝えた方がいいと思ったの。他の方面から聞かされるよりいいと思ったから。実はね...」 

「なあに。どうしたの。」 

「ジューンのお母さんのことなんだけど...ねえ、何も聞いていないの?」 

「べつに。サマースクールのちょっと前に健康のために病院に行って色々検査したけど。それがどうしたの?」 

「それ以上、何も聞いていない?」 

「だから、何も聞いていない。」

「じゃあね、実はね、話によると、ジューンのお母さんは、ガンのためにハワイの病院に行ったんだって。」 

クイーンズ病院、ホノルル 

「ああ、それは何かの聞き違い。病院のお医者さんは、ハワイの二世だったの。前の医者は分からないから、もっと若い先生に紹介すると、言ってた。そのことじゃないかしら。」 

「そう?だったらいいけど。ただ、こういう噂話を聞いているから、ジューンに知らせた方がいいと思ったの。」 

「心配してくれて、ありがとう。その話が本当のことだったら、家から手紙が来るから。そういうものが来るまで心配しないことにする。」 

一週間したら、「そういう手紙」が来ました。そのすぐ後にハワイからの電話も。 

母はハワイの病院で胃がんが確認され、何の治療も手遅れだということが分かりました。残された命は一年あるかどうか、分からないl 

それで、私は、どうしたらいいの。 

7月の勉強を済ませて、ハワイにいらっしゃい。そのときまでジョイスとジャニスもいるはずと、いうことでした。 

心の備えは主の責任です。その責任を果たします。 

サマースクールに残る生徒は少なく、雰囲気も、いつものボブジョーンズと全然違いました。友だちと話す機会も時間もあるので、もっと早く、親しくなれました。 

ある日、このようにできた友人が昼間なのにベッドに寝ていました。どうしたのと、聞いてみると、歯医者でもらった痛み止め薬が切れて、歯の痛みがたまらないと、涙を流しながら答えました。 

その時の自分の気持ちを、よく覚えています。何かしてあげたいけれど、何もできない。苦しんでいる相手を見るだけ・・・すぐ思いました:神様は私をハワイに行くための準備をしているのだと。 

実際そういうことになりました。家族が他の親戚の結婚式に出席した時に、私は病院に残って母を看病しました。痛みを抑えようと空気を手で叩く時、側にいたのは私でした。(私はてんかん・甲状腺の薬の問題があったので、みんなと自由にうごけなかったので、母と一緒でした。)大学で、あの経験がなかったら、もっと苦しんでいたと思います。 

サマースクールの一つの授業を教えてくれたHansel先生を感謝に思います。教師たちは、学生たちの夏から祈りの課題をずっと祈って、秋新学期会った時、Hansei先生に、「お母さんの具合は、どうですか。」と聞かれました。

「とてもげんき。」

「とても元気。これ以上元気なときはなかったと思います。」と返事し、先生はわかってくれました。 

*   *   * 

でも、神様の働きの素晴らしさを考えば考えるほど、感謝するしかありませんでした。17歳の私は、宣教師になろうと、ボブジョーンズで訓練されることしか頭にありませんでした。マミーの体がガンに襲われ、命があと少ないことは、全然わかりませんでした。子供3人のなかで、ジューンがいちばん弱い。母親の側にいなければならないと知っていた神様は、大学にいた私の体を、病気にさせ、沖縄に連れてこさせたのです。でも「病気」といっても、甲状腺の低機能の堺線という、勉強を一時的中断させる、薬とリハビリ1年ですぐ戻れる軽いもの、致命的問題ではない。だけど、スグ学校に戻らないで、親子がなるべく長く一緒に居られるように、(実際、8月に母は亡くなったので、それが最後の地上の1年間だったのです!)当時の沖縄の病院が必要な検査器具が揃っていないようにしてくれたのです! 

良くなるのに、なんで、こんなに時間がかかっているんだろうと、私はジタバタしていたけれど。 

海中公園で親子タイム 

また、新しい祈りを覚えました:「神様、これから、私のわがままをかなえないで下さい。時々分からないで、とんでもないことをお願いしちゃうみたい。聞かないで下さいね!」

2026年8月23日日曜日

娘の誕生は8月27日だけど、「イイ経験」の話

待てなかったの。恵美の「休憩ブログ」は、8月27日にしようと、思っていたけれど、24日の記事で、私は元気になって、母との話はあとにし、アメリカに戻っちゃうから、ここに入れちゃいます。その一年間、母といっぱい話すことが出来ました。やはり、洗濯物を干しているときでした。

「マミー、母親になるって、どういうこと?」と、聞いたことがあります。

「そうね。」と自分の方を向かないで、庭の花を眺めながら言いました。「イイ経験よ。いつか私の娘たちにも知ってもらいたい。」

*   *   *


その時は、まだ大学生。その後、結婚し、子供は2人育てている。今日は、その上の子の誕生日。そして、彼女も5年前に男児で「いい経験」を知ることになった。

今度は孫が、神様の豊かな愛をフルに知ることが出来るように私は祈っている。どういう祝福に開くことか楽しみ...

2026年8月22日土曜日

たかよちゃん

車の事件は2月2日で、1か月後(3月3日、ひな祭り)に、もう一つ嬉しい事件がありました。

ビリーグラハム・クルセードが沖縄にやってきて、1万5千人出席しました。カトリック教会も、近代的教会も、この運動に加わり、3つの教会だけが信者を送りませんでした。私たちの教会、米軍人のためのマラナサ・バプテスト教会、そして宣教師として日本本土から送られていた斎藤先生の聖書バプテスト教会。それが「嬉しい事件」でなく、その後のこと...

教会の近くに住んでいる中学一年生は、その伝道集会に行ってみて、もっと聞きたいと思い、具志川バプテスト教会に来始めました。毎週忠実に来ましたけれど、救いの決心をしようとはしません。これが数カ月続きました。ある日曜たかよちゃんに直接聞いてみました。

「たかよちゃん、ずっと教会に来ているけど、説教聞いたりして、意味分かる?」 

左前のデニムスカートがたかよちゃん

「うん。」

「イエス様信じたことある?」

「う~ん。」

「信じたいと思わない?」

「そうね...わからない。」

「ねえ、そのこと、一週間よ~く考えてみたら。来週またはなしましょうね。」ドアでかよちゃんの霊の目が開かれるようにいのりました。彼女が頭を上げた時、目に涙がのぼったように見えました。 

「また来週ね。」 

ずっと一週間たかよちゃんのことがあたまから離れなくて、救われるように祈っていました。次の日曜日、たかよちゃんは早く教会に来て、彼女のところに行くと、すぐ話しはじめました。礼拝が始まろうとなっているのに、全然止まろうとしません。

皆が来るまえから話し始めた

「たかよちゃん、集会がはじまるから、廊下で話そう。」 

聖書と字の無い本のトラクト(中学生用、御言葉も書いてあるもの)を持って、廊下のゆかに座り話し始めました。 

一週間前たかよちゃんと話してみたとき、字のない本を見せて、「これ、わかる?」と聞いてみたのです。 

たかよちゃんは自分のカバンから小さな字のない本を取り出して「あっ、私も持ってる。」と、言いました。もしかしたら、たかよちゃんは、ビリーグラハム・クルセードで招きのときに前にでて、誰かに救いの道を紹介してもらったのではないか、そのときに字のない本を貰ったのではないかと、思い、興奮しました。

「でも、何かわからない。クルセードでもらったんだけど、何かのお守りだと思ってたの。」 

決心しようと思っても、カウンセリングする人が、「これからは人生のなかで神様の愛を表すように頑張りましょう。」程度のことしか言わないのでは、実際新生する人は少ない方でしょう。たかよちゃんのように、新約聖書と字のない本を、説明なしに渡されて家に帰される人は、何人いるのか、分かりません。決心者みんなが、かよちゃんのように、聖書が教えられる教会に行くようになって、そこで真理・福音を自分のものとすることができるように祈るしかありません。人の救いを願っている神様はこう働いてくれることができます。

たかよちゃんは、普段、おとなしい、気持ちを表に出さない人でしたが、あの廊下で話をした朝は別でした。自分が罪人であることを認めて罪の奉修が死、永遠の地獄である、ことを分かったとき、彼女の顔は、私は、一体どうなるのだろうと、曇りました。

十字架の話、イエス様が代わりに罰を受けて下さったこと、完全な贖いを成し遂げて下さったことを聞くと、その暗い表情に希望の光が輝きました。

罪を悔い改め告白すると、全てが赦され、この救い主を信じ受け入れるだけで永遠の命を自分のものにできる。この話で、たかよちゃんの顔は全く明るくなりました。

「たかよちゃん、今イエス様を信じる?」

「うん。」

一緒に祈って、救いの確信の話をして、会堂に戻ったとき、礼拝は終っていました。父も母も教会の皆さんも、私たちがどういう話をしているのか知っていて祈ってくれていたことは、感謝です。食事と交わりの時間が始まるところだったので、母は私たちの話のことを聞いて、皆に言いました。

中1のたかよちゃん 

「たかよちゃんが今朝何かあったそうです。」

「イエス様を信じました。」

ハレルヤ!

これが「嬉しいい事件」です。その後、たかよちゃんは、どんどん変わりました。内気だったたかよちゃんは友人の救いの重荷を持つようになり、教会に誘うようになりました。学校の工作時間で指人形を作る時、たかよちゃんはイエス様の人形を作り証の機会を作ろうとしました。家でも、自分の部屋に再臨の絵を飾り、家に来る友人に証しようと努力しました。

ご両親は救いの意味は、はっきり分かりませんでしたけれど、娘がこんなに変わって良かったと嬉しく思っていました。春になると、私がボブジョーンズに帰ることが決まりました。

ちょうどその時期、たかよちゃんは悪友の影響で、ご両親を困らせるようになり、家族は引っ越したので、たかよちゃんは、どうなったか、わかりません。どこかで主に守られていることを祈るしかありません。

高校でアメリカから帰って来たとき、長田おじいちゃんは亡くなっていた。健康の為大学を休学したら、大城おじいちゃんがいなくなっていた。今度は、春に、もう一人のおじいちゃんが召された。。。と、考えたいです。

天願から電話が掛かって来た。(父のお母さんの出身地です。)「川崎おじさんが危篤です。」ということでした。「病院に来てもらえませんか。」父の小4,5年を、このおじさんの家族と一緒に暮らした。世界大恐慌の時、おじいちゃんはカナダに残り、独りで仕事するのに専念して、2年間家族を沖縄の、この川崎家に預けた。

ダディーの本棚の一段目と壁掛け写真

(壁掛け写真は大恐慌で撮影、本棚は60年前の川崎さんたち)

あのおじさんが危篤!父母は急いで病院に行きました。部屋に入ると、おじいちゃんは、頭を少し上げて「君子さん」と、母の名前を呼びました。「良くきてくれた。」

甥である父もベッドの側に来ました。「おお、昇。」

おじいちゃんは、力はあまりなくても、あたまは、はっきりしていました。ことばをはっきり発音できなくても、長年教師していた結果の優れた知性は、目を見ると、分かります。

福音を繰り返し聞いたおじいちゃんに、父と母は言いました。「おじさん、イエス様を信じなさいね。」おじいちゃんは父と母の手をしっかり握り、何か言おうとしていました。イエス様を信じたことを伝えたかったと思いたいです。

数分似内に死ぬと思われていたおじいちゃんは、その晩も、次の日も、生き続けました。日曜の午前、復活の朝に、川崎おじいちゃんは、この世を去ることになりました。 

おじいちゃんは、私たちに何か言おうとしていたのかな。というより、神様が、私たちに、おじいちゃまのことを何か伝えようとしてのかもと、思いたい。 

*   *   *

嬉しいときにも、悲しいときにも、父と母は、教会の仕事をしている時何かのちからで輝いていました。心の喜びを見つけたと見えました。

父と母は独身のとき、教師をしていたので、2人とも教えることが好きでした。父は自分は説教が下手とい言っていましたけれど、生活の中に適用できる励ましのことばをのべるのが得意で、母は「無視され過ぎる」旧約聖書を教えるのが好きでした。

*   *   *

年の性かと、母は思ったりしていましたけれど、前のように元気がありません。2回も頭痛で集会を休みました。マミーが集会を休むということは、相当あたまが痛い時だけでした。あと一年で2人は60代。若い宣教師が早く助けに来なければと、思い、数カ月したらボブジョーンズの訓練を続けることができることを嬉しく思いました。

6月に始まるサマースクールに行くことになっていました。

2026年8月21日金曜日

今日は結婚記念日。休憩タイム

1959年に産まれたときから、あったことを、ずっと書いてきた。石の墓が目立つこの沖縄で育ったこと、沖縄クリスチャン・スクールで救われたことを書いた。この沖縄に帰ってきてイエス様の十字架を伝えるように召され、それも、アートで宣教できればと願っている。この話は、斎藤という人と一緒になる1987年で終わる。1980年ぐらいまでブログに載せたから、もうちょっとなのね。 ...それから40年になる。この絵に地震・津波:2011年の東震災のことが描かれているけれど、結婚以来のことは、何も書いていない。少し書いてみようかな...

2026年8月20日木曜日

車の下敷き

先生がいた頃は、家で集会を開いていました。また従弟のカナリアを飼っていたので、賛美する時、一緒に歌ってくれました。人間の楽器より美しく、教会堂として与えられたのは、古い古い所。壁の所々に穴が開いていて、新聞紙でふさがれていました。米軍基地から捨てられる木材とペンキを無料でもらうことができて、建物を改造することができました。診療所として使わレっていた所が、集会堂・台所・寝室・とシャワー・トイレになりました。

Chippyも一緒

 父は毎週金曜んい刑務所に行き、ある信者の長男を訪問していました。最後の一年にその人は救われ、神の子として出してくることが出来ました。刑務所にいる間、電気技師になる訓練を受けていたので、教会の電気工事をしてくれて、10万円以上助かりました。字架の全き赦しをも知ったこの人の顔には、犯罪・処罰の影は、少しも見えません。 

寝室・シャワーなどは、教会に住むスタッフのために作ったものですけれど、未だだれも与えられていませんでした。私たち家族が朝早く教会に行って、ドア・窓を開けたり、椅子を並べたり、電気を付けたりして、集会が全部終わったら、後片付け・戸締りをしていたので、結局帰ったのは、10時半のときがありました。

そして、車の中では、教会のことを、いつも話していました。ある晩、そう話しながら、何となく変な気持ちになりました。この、田舎道に(照明はありませんでした)確か、さっき、見たのは、車一台が左に曲がった所に、交差点がなかったはず!U-ターンして確かめに行きました。

教会に早く行って戸締りもした 

路肩に車を止め、父は懐中電灯を持って少し先を歩いて行きました。道は時にボウボウと生える草を見ていました。ちょっとすると... 

「思った通り。車があった!」と父の声がした。「待てよ。下に人が!」 

カンカン音が聞こえます。父は懐中電灯で車の下を照らすと、人間の叫び声が聞こえました。 

Back the car off me!」(おれから車をバックしてくれ!)米軍人でした。でも、3人だけでは、父母と私だけの力は全然足りない。車は路肩が急になった所に落ちていたので、他の人も助けてくれないと何もできない。 

母と一緒に道の方に行き、車を止めて、助けてもらおうと思いましたけれど、車は中々とまりません。無理もありません。夜中、照明もない寂しい一本道に怪しい人間2人が泊まるように何か叫んでいる? 

2台止まらなかったので、次の車が来た時、自分は母の顔を見て、息を吸い込んで道の真ん中に出て手を出しました。止まって。お願い。 

道は狭くて、止まるしかありませんでした。母は車の方に走って行って説明しました。 

「人が車の下敷きになっています!助けて下さい!男の力が必要です!」

車から男性3人が手を貸してくれると言いました。 

次の車も、同じように止めました。今度は、女性ばかり。ほとんど助けになるはずありません。次の車は、男性2人。事情を聞いたら、すぐ車の所に走って行きました。 

一人はギアをバックに入れ、残りの人は、せ~ので車を押しました。車は路肩までバックされました。ほとんどの人は何も言わないで、そのまま帰りました。一人は、車の下の人が大丈夫であることを確認して、そのあと、すぐ帰った。他はもっと若い人、知り合いだったのかな、彼らは感謝されるのを待たず、すぐいなくなった。 

カン・・・カン・・・と何か聞こえた 

母は車の下にいた人の所にすぐ行きました(母は看護婦になることを考えたことがあって、血を見ても平気です)。この点で、父は正反対でした。他人の血を見ると、すぐ具合悪くなります。その人は自分の力で立ち、背の低い母の隣では巨人に見えました。アメリカン・フットボールのプロ選手みたいと、私は思いました。 

I couldnt move! I just couldnt move!」(動けなかった。全く動けなかった。)と彼は何度も何度も言いました。「Not with the car on top of me like that!」(そのように車の下敷きになって。) 

少しづつ何があったのか分かってきました:アルコール飲み過ぎて家に帰る途中、道端で用を足すつもりだったけれど、酔いのため、ギアをパークにせず、ニュートラルにしたみたいで、車は自分の後ろを転がってきた。ドンと何かに押されたと思って回ると、車に倒され、彼は腕を車のタイヤーとぼうぼう生えている草に挟まれてしまった。 

現地人は、そこ辺りの植物を「ハブ草」と呼んでいた。猛毒の沖縄蛇が生息する草と知られていたからだ。男は、自分のケガは大したものではないけれど、朝まで人間に見つからないで、蛇にやられてしまったら、自分は死んでいると、知っていた。夜のいなかの道は明かりがない、人に見つからないかもしれない。だから動ける足で車体下をガンガン蹴ったりしてなんとか抜けだそうとしていたのです。 

ところが、私たちは、この人の車を見て、バックしたのです。腕からは血が出てるけれど、大丈夫。骨は折れていないと言っています。

酔っている人を運転させるとまた事故になると思い、父はこの人を私たちの車に乗せて家まで送ることにしました。 

酔っていたかもしれませんけれど、気は確かでした。命が助かったことは、はっきり理解していました。 

「みなさんのために、わたしに、できること、ありませんか。何か必要なもの、ありませんか。」と言っていました。「お金?家?何かの修理・工事が必要ですか。私は何でもします。自由に言って下さい。何でもやります。」 

私たちが宣教師であることを話、ちょうどいい時に神様にそのように案内されたことを話すと、彼は教会に献金でもと、財布からお金を取り出すところでした。父はもちろん、それを止めて、近くに住んでいるクリスチャンの米軍人の名前を出しました。この人に会って、米軍人のための教会に連れていってもらうようにと、言っていました。 

でも、その人のその時の反応に考えさせられましった。命を助けてもらった人のためには、何もする。それが自然に流れ出たことばでしった。彼にとって、当たり前のこと。 

私たちクリスチャンは、何となさけない者だろうと、思いました。私たちは、鉄と毒の危険からでなく、永遠の地獄の苦しみから逃れたのです。私たちの自然な反応も、「私に何かできるものはありませんか。主よ、何でもします!」他の反応は、考えられません。 

しかし、聖書の中で、使徒パウロが信者を献身に勧めたとき、「あなた方に願います」といいました。あたりませのことを、なぜ私たち救われた者は、お願いされなければならないのでしょうか。 

そういうわけですから。兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的なれいはいです。ローマ12:1

姉妹が来るまで奏楽

斎藤ネコちゃん

郡山市で私の子供2人を出産し育てました。布団生活しか知らない日本人には、添い寝は自然かもしれませんが、米国では、ベッドを使って、赤ちゃんはゆりかごやベビーベッドに寝かせたりして、添い寝の習慣は、ありません。 私は恵美と初めて添い寝をして、好きです。娘が言葉を覚え始めたとき、寝るま...