2026年7月31日金曜日

とにかく

新しい団体の下に帰ることになったということは、前の教会は、ない。時には紅海が別れ、はっかり備えられた道が目の前に見える。「これが道だ。これに歩め。」という声が聞こえるしかないときもある。とにかく愛する沖縄に戻ることが許されただけで感謝だった。

ビックリしたことは、長年、沖縄で一緒に伝道していたワーラ先生たちも、同じ不安を感じて一緒に宣教団体を変えて、BMMで帰ることになっていた!

ワーラ先生たちが住む家は、私たちが見つけた住まいのすぐ近くにした。前の家に行くには車が必要だったのに、それにワーラ先生たちが離島伝道に専念したときから車だけでなく船も要るようだった。だけどこれからは歩いて行ける、家はすぐそこだった。(この3人の子たちなの、共産党ごっこをしてくれたのが!)とにかく嬉しかった。

長田おじいちゃんはいない。だけど、祖先崇拝の奴隷から解放されたキクおばさんと娘さんたちと家族たちが待っていた。教会となる礼拝堂はないが、礼拝する信者は既にいる。

 

そう。自分の写真のバイクとヘルメット、当蔵時代から一緒のワーラ先生のものなの!

それに、宇堅村からの女性数人がタクシーで会いに来てくれました。(そう、私に名前をくれたおばさんたち!)長い話を短くするけれど、これらの信者・カナダのおじいちゃん・ワーラ家・大城家で、すぐ集まり始めなさいと、神様に導かれたように感じて、大城宅のリビングで毎週日曜集会をして(皆で賛美し、祈って、メッセージはダディー)、近所からも新しい人が加えられるよう祈って、とにかく、始めました。

リビングで始める

古堅で自己紹介配り

リビングに交わりの為に集まった宇堅のおばさんたち、ワーラファミリーと大城ファミリー、おじいちゃん。ジューンとジャニスは時々マミーとダディーの自己紹介配りを一緒にした。

 

ワーラ先生の証・案内図

その一年間、一生懸命した。そう表現するしかない。昼間は、子供たちは学校に行って、大人は、沖縄での開拓伝道を色々考えていた。考えていたと、いうより、父・ワーラ先生の自己紹介の証を書いた者を印刷して、家族の写真や家の地図などを載せたものを住宅の一軒一軒に配っていた。ワーラ先生の子供達、時々ジャニスと私も、学校から帰ると、自由時間があると、これを「ファミリー・プロジェクト」と、みんなで配っていた。








2026年7月29日水曜日

嬉しい知らせ

沖縄からの一つの喜ばしい知らせは長田おじいちゃんのことでした。亡くなったことは、悲しくても、神様がこの死をも用いて祝福を与えてくれたことを感謝せずにはいられませんでした。

クリスチャンの内に宿る聖霊のちからを、おじいちゃんを通して学ぶことができました。沖縄の祖先崇拝に「ユタ」という占い師のような者がいます。様々な困難・悲劇があるとき、このユタが問題の原因(何が先祖の祟りをおこしたか)、解決法を指示します。詐欺師別として、悪霊のちからをかりて先のことを予告したりします。

母の従妹は、この様な、特別なちからがあり、ユタになることになっていました。長田おじいちゃんに会うたび、おばさんの内にいた悪霊とおじいちゃんの内にいた聖霊はぶつかり会っていました。おばさんが就任式で正式にユタとして認められる日がおじいちゃんの葬儀だったのです。おばさんは、葬式の方に出席しました。(おばさんの目はひどい憎しみと怒りに覆われていたため、彼女が写っている写真は全部捨てられたそうです。)

キクおばさん

おばさんは、他の人に対してちからがあっても、おじいちゃんに対しては、何もすることが出来なかった、死ぬときでさえおじいちゃんの神様に勝つことが出来なかったと言っていました。その日おばさんは「負けた」と認め、1週間以内イエス様を信じたのです。それから新しいちからを知ることになり、あまりも変わったので、主から離れていた娘3人が教会に帰って来たのです。一人は7歳のとき、この長田おじいちゃんに導かれた娘でした。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊な実を結びます。 ヨハネ12:24

長田おじいちゃんが導いた、いちばん下の瑠美子さんは、里子、私、愛子より数年年上です。私たちと一緒に住むことになりました。まえにも色々家族を手伝ってくれたことがあったので、時々は姉になってくればいいのにと密かに思うことがあったのを覚えています。

瑠美子ねえちゃんと海岸でピクニック

自分は日本語はうまく話せなかったのですが、この瑠美子さんは聖書が好きだったから、自分の心の悩みを聖書の教えを通して「話す」ことが出来ました。

ある日、...彼女の落胆・絶望と大変な暗闇を聞くと、私は「話さない」では居られなくて、聖書をある箇所に開いて、側に持って行きました。

「私、日本語上手に言えないけど、これ読んで」と言ってみました。「私を助けてくれる。」自分の日本語、通じてるかなと、思いながら続けました。「自分自身を見ると落胆する。当たり前。自分は弱い、罪深い、とても悪いだから。神様を見ると、助かる。」これを言うのだけが精一杯でした。

開かれていた詩篇42編を読みながら、彼女は涙を流していいました。

「これ、ほんとうにいいね...」と。

彼女の顔を見て、言ってみました。「瑠美子ねえちゃん、神学校に行くこと、考えたことある?」こんなに聖書を愛しているんだもん。

一年間、瑠美子さんは、目の前でどんどん変わりました。絶望と「何とか生きている」の歩みから自発的に奉仕するようになり、気が付くと、神学校に行くと献身してくれました!

いつかルミ子ちゃんが神学校に行くことがおじいちゃんの夢だったのです。天国からおじいちゃんは見てるかなと、時々思います。生きてたら、すごく嬉しかったと思う。


ルミ子ちゃんが本当に神学校にいくことになった!

2026年7月28日火曜日

グレイハウンドバスで新しい朝

グレイハウンドバスの前

アメリカには全国に広がる路線をもつバス会社があります。家族はグレイハウンドというものに乗って10日間アメリカを周り、西海岸に行くことになりました。(特別安くなったので)。イエローストーン国立公園に行ったことは少し覚えていますけれど、他の観光名所は、ほとんど忘れています。

旅は夜中も続きました。バスは冷房され、とてもスムーズだったので、よく眠れました。バス旅行にいい時期を選んだのかもしれません。そのときは、やかましい子供、うるさい青年、タバコやビールの匂いの問題は、ありませんでした。(それ以来、経験したことです。)

まだはっきり覚えています。昨日怒った出来事のように。ある朝、目が覚めたとき、運転手以外の人はみんな寝ていたので、とても静かでした。道も、平野だったので、シーンとしています。

「ああ、聖書が読みたい。だれも起こさないように気をつけて聖書を取り出し、人が起きるまで、一人で読んでいました。

その朝のこの慕いかわきは、忘れられません。そのときから、みことばを自分のものにすることの大切さが分かり始めたと思います。私の一つ新しい朝でした。

2026年7月27日月曜日

ガラスの破片に這ってまで

その学期が終わったとき、沖縄に帰ることを知っていたので、友人・クラスメートに年鑑をサインしてもらいました。親しくしていたジーナという子が(バレーのチームメイト)自分の年鑑を私にサインしてもらいたいと言ってくれました。

ジーナは未信者で、神様の話は嫌がっていました。他の考え方はよく合ったのでけれど、信仰の話をしようとすると、友情がだめになると言って、いつも怒るのでした。ですから、年鑑をサインするとき、福音をはっきり書くより、最後に「ジーナのために祈っています。」と付け加えただけでした。彼女に本を返したとき、すぐ開いて私の書いたものを読みました。そして、カッと怒ったのです。

「ジューン、なんでそんなこと、書かなければならないの。」

自分にいちばん大切なことを、親しい友人にも伝えることができない。ジュディという妹の友人の車に乗っているとき、その欲求不満と悲しみをこぼし出すように話しました。(彼女もイエス様を信じていなかったのですけれど!)

ジュディ・ジャニス・ジューン浴衣で

ジュディは、そのとき、こう答えてくれました:「ジューンの気持ち、分かると思うわよ。私だって、ジューンの信じていることを信じていたら、ガラスの破片を這ってまで、人にそのことを伝えようとしていると思う。」

自分の足りなさに恥ずかしくなり、神様、私にこのような重荷を与えてくださいと、祈るしかありませんでした。沖縄に帰る時は、自分はスゴクりっぱなことをするつもりは全然ありませんでした。かえって:

わたしの高校のときの、賛美の経験はこういうものでした:前に聞いていたものは自分を引きずり下ろすもの:混乱・怒り・肉欲・自我・絶望等々、と知っていました。これえらから精神的に「手を切りたい」と思いました。だけど、一生懸命暗記した御言葉を口ずさんだり、新しく覚えた讃美歌を歌ったりしましたが、ロックの音楽が自然にあたまの中を流れるので、相当悩まさました。

ある日食器洗いをしながら、自分が心の中で讃美して、ロック音楽は1週間も考えていないことに気が付いて、「勝利!」と思ったのを覚えています。空が出てきた!

空が出てきた

いままでは、悪を憎むことができるようにと、神様にお願いしていたけれど、これからは、愛で溢れる歌が与えられるようにと祈りました。

「シオンの悲しむ者たちに、灰のかわりに頭の飾り、悲しみの代わりに喜びの油、憂いの心の代わりに賛美のがいとう」(イザヤ61:3)

自分はやっと立てたかなと思うけれど、用いられたい、と思い、まあ、宣教師の両親におんぶされ沖縄に向かいました。

2026年7月26日日曜日

キャシーとおじいちゃん

宣教団体が変わったので、これから、今まで祈ってくれた教会皆に今の状態を説明して、ある程度サポートの調節は必要だから、新しい教会の指示を求めてデピュテーションも必要。沖縄に帰れるまでは、とにかく、あと1年ぐらいかなと、思いました。

2年に上がった時、キャシーと一緒のスタディ授業はありませんでしたけれど、学校の始まる前と終わった後、昼食の時など会って話すことはありました。ある日、学校のはじまる前、キャシーが私の所に走ってきて、手紙を私の手に入れ、何も言わないでまたどこかに走って行きました。何だろう。読んでみました。

「ジューン、去年の決心は、心からイエス様を信じたのではありませんでした。今は、信じていますけど、その時、私はとても寂しくてーー親友を失くしたばかりーークリスチャンになると言ったら、宣教師の子供は友達になってくれると思っただけです。いつも色々話してくれて、ありがとう。こういう結果になったのは、そのためだと思います。でも、今のところ、誰にも何も言わないでください。自分の心で確信したいものがあるので、それができたら、ジューンに言いますから、その時からは、誰にでも伝えていいです。ーーキャシー」

キャシー!今度は、ユダヤ人のキャシーが救われた!すぐ母に伝えたかったのですけれど、キャシーがいいと言うまで待ちました。一週間後、学校が終わった時、「いい」と言われたので、私は家に走って行って母に(学校ではジャニスに)伝えました。ジョイスにも手紙を出して、この嬉しい知らせを伝えました。ハレルヤ!

父と母が主に忠実に従い、宣教団体を出ていなかったら、同じ団体で沖縄に帰っていたら、2年目、キャシーが救われるのを見ることができなかったでしょう。家族からもすごく反対されたので、ファローアップは、大変でした。ユダヤ人は、イエス様の誕生を、勿論いわいません。キャシーはクリスマスの日を私たちと一緒に過ごすことにしました。沖縄に帰っていたら、一年間も、集中してキャシーを助けることができなかったでしょう。

キャシー初めてクリスマスを祝う

おまけに...その一年間、救われたばかりのキャシーに聖書の真理、人間観の魅力と危険、などを教え込むことができました。(この様に訓練した人は、他に一人もいません!)一年したら私たちが沖縄に帰ることを考え、キャシーを聖書にしっかり結びつけなければならないと、思っていたのです。

キャシーはもっともっと私たちの家に来るようになっていました。言語が好きなキャシーは、自分で日本語を覚えて、ある日、笑顔で言いました。「イエスサマワ ワタシノ スクイヌシ デス。」←「コノニホンゴ タダシイ デスカ」?

宣教師は皆キャシーのように言葉を獲得してくれたらいいのにと、思いました。

ファーロの集会の一つ(別の宣教師先生が説教者)は、家族の救いのことでした。家族のために、もっと重荷をもって祈りたいという招きでした。その時、父と母は前にでてひざまづき、兄弟姉妹と両親のために涙を流していたのを覚えています。

ファーロの2年目、カナダのおばあちゃまが亡くなり、おじいちゃまが一緒に住むことになりました。

おじいちゃまは、とても優しい、とてもいい人でした。私たち3人は、小さい時から、おじいちゃまが大好きでした。この様ないい人が、70代になって、救われることはあるかなと、思いました。

キャシーが、自分の日本語を使ってみたいと思い、おじいちゃまの所に話しかけました。日本語で!「イエス様は私の救い主はです。おじいちゃんもイエス様を信じて下さい。」

それだけでした。キャシーはキャッと恥ずかしそうに逃げちゃったけれど、おじいちゃんはニコニコ。「ホ~。じょうす、じょうす。ベリーグッド、キャシー。」

おじいちゃん、88歳誕生日

だけど、私のことをクリスチャンと言う、この二重人格のジューンと一緒に住んでいるおじいちゃんはイエス様を信じる訳がないと、信じていました。ある日、「皆に大事なことを聞かせたい」と、父は家族をおおせつまに呼び集めました。

父と祖父は、ゆっくり話しました。「さっきの話、皆に聞いてもらってもいいよね。」

「いいよ。」

「パパ、人間はみんな罪人で、心の中に悪いものをもっているーーパパもーー、だから天国に行けない、地獄に行かなければならないことを、信じている?」

「信じているよ。」

「だけど、イエス様が十字架の上で私たちのためにーーパパのためにもーー死んでくださったことを、信じる?」

「信じるよ。」

「イエス様は、神様だから、生き返ったと聖書に書かれてある。パパ、これを信じて、神様に罪を赦してもらったら、天国にいけるけど、今、ここでイエス様に祈らない。」

「ああ、そうしたい。」

本当に子供の用に、おじいちゃんは頭を下げ、目を閉じ、神様に祈りました。どうぞ私の罪を赦してください。イエス様を信じます。と。

皆が頭を上げ、目を開けると、おじいちゃんはこう言いました。「面白い話があるが。聞いてくれんか。」と。

まだ高校生だったとき(沖縄の天願村の学校)、金髪の、目の緑色の独身宣教師夫人が沖縄に来ていた。18世紀の話です。祖父は、好奇心に引かれて彼女を見に行った。そのとき初めて聖書の話を聞き、讃美歌を2つ覚えた。

「まだ覚えとる。」おじいちゃんは少し考えて、歌い始めました。

「主我を愛す~

 主は強ければ

 我弱くとも

 恐れはあらじ」

「もうひとつはのう、こういうもんだった。」そして、沖縄の方言で歌いはじめます。

「道迷て居しよ   でかよむどて

 わした天島ぬ  親ゆ拝ま

 罪とがゆくやむ 心てしど

 親からしでたる 宝でむぬ」

そのときから、家庭礼拝が終わると、祖父は言いました。「わしが十五歳の時、沖縄島に金髪の宣教師が来てのう......」その時から、家庭礼拝は、同じ2つの歌で終わりました。日本語標準語で「主我を愛す」、沖縄の方言で「道迷て居しよ」。

2026年7月25日土曜日

やっぱりこれが正しい道だった

ついに決まりました。どうぞ、みむねを成してください。宣教団体を変えて沖縄に帰ることになりました。

 

 ついに新入団決まる               名札を頂く

このことが決まるまえ、
FEGC事務所で沖縄宣教プログラムをすることになっていたのです。キャンセルする時間は、ありません。私たちは、予定通り、沖縄伝道のために重荷を分かち合い、終わりの証として、”Follow Me”(「わたしに従いなさい」)いう歌をトリオで賛美しました。(シンプルに、奏楽なしで。)

よみがえられた 主のこえが聞こえる

わたしに従いなさい わたしに従いなさい

いちにちじゅう わたしによびかける

わたしに従いなさい わたしに従いなさい

あなたのために くるしいみちをあゆみ

あなたのために いのちをもすて

あなたのために はじをのみこんだ

あなたのつみのふさいをしはらうために

わたしに従いなさい わたしに従いなさい

そのとき、父と母にイザヤ30:21が与えられました。「あなたが右に行くにも、左に行くにも、あなたの耳はうしろから、『これが道だ。これに歩め』ということばをきく。」

これから、どう導かれるか、少しもわかりませんでした。知っていたのは、その導きが何であっても、私たちは解放された良心で、それに従うことができるということ。ハレルヤ。

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神さまは、エリヤの誤った考えを咎めず、彼に食べ物を与え、本当のことをゆっくり語り、立ち直るまで待ってくれたように、私たちも、欺かれた者を非難することはできません。かえって、神の子供を捕えようとするサタンの嘘に対して罪の宣言をしなければならないのではないでしょうか。

父母が本当に分からない・迷っているときに、叱らず、責めず、優しく励まし、祈ってくれた先生たちを与えてくれた神様に感謝するしかありません。

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バプテスト・ミド・ミッション(略:BMM)は、沖縄に教会はありませんでした。沖縄で新しい仕事を始める、特に、すでにある団体から出たものがそれをすることは、ちょっと難しいことです。ハワイの教会に行き(団体のハワイの教会は設立されていました)そこの必要の働きをすることがもっと考えられます。

「大城先生たちは、沖縄に帰るより、ハワイに送られることを考えられますか。」と質問されました。

すぐには答えられません。そして母が言いました。家でこのことを話し合っていたのです。

だって、心は沖縄

「私たちは、涙をいっぱい流すでしょう。心は沖縄しか重荷を感じていないので。しかし、私たちは、バプテスト・ミド・ミッションに導かれていることを確信します。BMMが私たちをハワイに送りたいなら、それも神様の導きとして.....喜んで行きます。」

BMMのリーダーたちは、父と母の伝道のための導きを祈り、やはり沖縄に送ることを決めました。

沖縄に帰ることが分かった時の喜びはよく覚えています。でも、島に帰ることができても、教会の愛する兄弟姉妹に会える・交わることができるとは限りません。

それに、愛する長田おじいちゃんに会えないことは、聞いて似ました。ファーロの2年目におじいちゃんは病気になり、天に召されたのです。でも、おじいちゃまの死を通して神様は命をもたらしことは、後で話します。

沖縄に帰ったら、おじいちゃんはいない。教会も別に始めなければならない。住む家もない。大城先生達の悪い噂話に避難されている。

先の道ーーこれからの沖縄伝道ーーは、いったいどうなるのでしょう。まったくわかりませんでした。

「これが道だ。これに歩め。」イザヤ30:21

しかし、沖縄に帰る前の最後の聖日礼拝を通して、もう一つ強い確信の言葉が与えられました。

その日の説教のテキストは創世記22:16-18だったのです。

「あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子供は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、他のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなあたがわたしの声に聞き従ったからである。」

沖縄の教会ーー霊的子供ーーをも、主にささげた為、大いに祝福されると、いう約束が父と母に与えられました。

状況を見るだけでは、どの様にこの約束が成就されるのかは、全然わかりませんでした。

2026年7月24日金曜日

助け舟

中学校のとき、自分の心が神様から遠ざかって行っていたにも関わらず、神様は学校担任のブラックストーン先生と聖句暗記を通して私にライフラインを出してくれたように、今度はゴッサードという伝道師を送ってくれました。

あの小2の夏以来、私は字が好きになっていました。有名なチャールズ・ディケンズのように書けなくても、書くのがとにかく好きでした。かくと言えば、絵を描くのも好きで、ミケランジェロの様な天才画家でなくても、お絵描きは、いつもしていました。そして、モーツァルト・ベートーヴェンのような才能でなくても、音楽は好きでした。

神様からの聖書にあるメッセージをコミュニケートする為に、準備した文章をチョークアートと音楽を用いて伝えると、ゴッサード先生は見せてくれました。先生が見せてくれた話は、タイタニック号が沈んだ話でした。絶対沈まないと言われていた、あの豪華客船が氷山で沈んでしまった話でした、人間には「絶対安全」はない、神様にしかそういうものはない。助かったのは、タイタニックの「絶対保証」に信頼した客たちでなく、あとで助け舟にレスキューされた一握りの人だった。私たちも人間の「だいじょうぶ」に信頼をおくのでなく、神様の救いに命をかけるようにしなければならないというメッセージだった。

15年も残った印象、自分もチョークアートすると決めた

その日、決めた。この伝道法は絶対自分のような者にできる。絵、音楽、文章、ずば抜けた能力はないけれど、チョークアートで何かを伝える為には、それが必要ないとゴッサード先生が言った。そして、なにより、聖書を愛し、伝えたい気持ちはあるし。

その日から何もかも忘れて、チョークアートを目掛けた。文章がうまくなるように、高校ではジャーナリズムの授業を勉強して、大学ではクリエイティブ・ライティング(想像系書き方)授業をとった。

高校の時、少しジャズ音楽のベーシックを勉強し、パウェル先生からピアノを教わった。大学では讃美歌奏楽とクラシック音楽ピアノ。チョークアートの授業もあったし、受けるために必要な鉛筆を使った描き方と角度授業を幾つか勉強した。

でもやっぱり高校生は高校生よね。チョークアートと、関係ないかもしれないけれど、なんだか、自分を取り戻すためにスゴク大事な一部だったと思う、それに神様もそれを分かってくれて、こう働いてくれたんじゃないかなと、思う。これからのこと・・・

このハイスクールの音楽部活で、姉は、すぐ活躍していたけれど、自分は様々なスポーツチームに入ったの(2年目から)。あ、ここで説明。日本の学校と違って、アメリカの学校では、一人の生徒が一つの部を選ぶのでなく、幾つかに参加することができるの。それが普通。春~夏の野球選手は、秋~冬はフットボールをする。

私は小5の時からバスケットボールが好きだった。背は低いけれど、早い方で、沖縄の学校では、中学生から高校チームのレギュラーだった。自分の成績があまりも悪かったので、高1は自分からスポーツを休むことにして、勉強に専念することにした。それが2年目、また戻ることができて、嬉しかった。ところが、このバスケットボールチーム、自分が鈍感で気が付かなかった:皆黒人だった!

 

OPH女子バスケットチーム

別な学校と試合中。床に倒れている自分を相手のチームの選手が靴で蹴ったように見えたので、仲間がワッと怒ってスタンドから走り下りてきた。レフェリーはゲームを止め、みんなを沈めた。その時からずっと可愛がられた。黒人でもないのに、Black Handshake(黒人同士の握手)を、もう一人の高校生に教えてもらった。

あのバスケットボールチームメイトたちが友だちでホントによかったと思う日があった。試験中、教えを要求するひそひそ声が自分の後ろから聞こえました。クビを降ると「あとで済まないぞ」と聞こえた。この子たちは大変なことをしていたので、これはただの脅しじゃなかった。

ちょっとしたら「やめてよ。私の友だちなの。」あ、あの声は、ジャネット。バスケットボールチームで一番背の高い、強い、センター!よかった。すぐ怖いひそひそ声は止みました。だけど、自分はまだちょっと怖くて、授業が終わったら、走って帰りました。

(ちなみに、あのジャネット、私のために書いたものを読んだこと、ある。背が高くてアスレチックで黒人だけど、皆が思う以上あたまがいいと思う。いつか医者にでもなって、皆をビックリさせるんじゃないかな。)

それはバスケットボールチーム。でも、面白いことに、そのあとはバレーボールもして、このチームには、黒人の選手は一人しかいませんでした。それで、監督も白人だったのを覚えている。既に自分の証ははっきりしていたし、酒はのまないと、皆知っていたの。ある日、皆顔を合わせるように自分を見ているようだったの。監督にききました。

「なにか?」

「バレーシーズンが終わって、チームのためにパーティーをしたかったんだけど、レストランはね、スゴイ小さいバーがあってね。」自分の顔を見て、監督は続けた。「みんなジューンは酒は嫌がると言っている。ジューンは飲まなくていいよ。それに、スゴクいい所だよ、バーはレストランの角に小さいものだけだし。これるよね?」

自分は笑顔で言いました。「パーティー自由にどうぞ。いい所でしょうね。」

「ジューンも来る?」

「ううん、でも皆は楽しんできて。ほんとにいいよ。」皆どうなったか、ちょっと覚えていない。

2026年7月23日木曜日

母と大学見学

学生祈り会?

その夏休み、家族で色々な大学を見に行きました。

最初に行ったのは、母が卒業した(約80年前)ホイートン大学。父が卒業したミラー・メモリアル神学校はアメリカ本土に来る数週間前に、カナダに寄ったとき、見てきたのです。卒業したときとあまり変わっていませんでした。でも、母の卒業した学校は、少し変わっていたというより、全く変わっていました。(1975年書かれた学校の様子です。)

生徒一人一人が自分の判断力に頼ることが考えられ、それを基として自分の道徳律をくみたて価値権を決めることが勧められ、優秀な知性と自由自己表現が奨励されていました。

母は昔、大切にされていた学生祈り会のことを聞いたところ、神様を礼拝するということは強制するものではない、意味がなくなるなると言われました。個人個人、寮で何かのために集まって祈りたいなら、そうして、出席したい人だけが出席するようになっていた。

新しく建てられた女子量:男子寮は、実は同じ建物で、中央のロビーを隔てていました。夏は、ロビーの両側のドアは閉められていましたけれど、冬は外が寒いので、友だちの部屋で勉強できるように、ドアは開かれていました。

キャンパス・ツアーガイドは、学校のいい所を述べているつもりでしたけれど、母は落胆させられる一方でした。

ホイートン大学見学が終わって、私たちが車に乗った時、母はゆっくり話しました。「自分の母校のことを、こう言うのは辛いけれど...今日の見学でわかってきたこと...私の娘がホイートン大学に行きたいと言うとしたら、残念だけど...私はそれを喜んで賛成することは、できません。」窓の外をながめ、それ以上何も言いませんでした。

あのMustang車でき大学見学をしてきたの

他の学校を回り、最後にボブジョーンズ大学に行きました。この学校に行く者は、自分のために考えることが、出来なくなる。学校で時代遅れの規則や人種差別が行われている。などなど。

でも、ミシガン州の一つの教会の多くの青年は、ボブジョーンス大学生でした。私たちが知っていた人達は、明るい、しっかりした、暖かいクリスチャンで、べつに「おかしい」と思わなかったので、この大学を見に行くことにしました。

ボブジョーンズについて聞いたことを彼らに尋ねてみたとき、その話を否定したり、学校を弁護したり、事実を説明しようとしたりしなかったのです。

「そう。私も同じようなことを聞いていた。」と笑いながら言うのです。「いつか、見に来たら。すぐ分かると思うから。」

キャンパスに着いての最初の印象:とてもきれい。ゴミが全然なかったのです。門の外の道路と門の中の道は対照的でした。次は:人の表情。笑顔。でも、見せかけの親切ではなくて、自然な雰囲気と、何となく感じました。こんな所、あるって、分からなかった。

 

大城女性、大学見学

その日はバスケットボールの試合がありました。食事の前に、それぞれのチームのファンが食堂の外にあつまり、自分のチームを応援していました。ある学生は、インデアンの服装・フェイスペイントをして、ぐるぐる回って踊りをしています(インデアンの名のチームのファン。)他の者は、大太鼓をドンドン叩きながら歩き回っています。「自己表現のない所」?とんでもない。と思わされました。

他人を無視する「自我」を表現しなくても、個性を十分に表すことができる。自分の意志を失くすのと自分の欲を制するのとは違う。ボブジョーンズの生徒は、狂ったように見えるほど変なことはしないけれど、ロボットのように無感覚な人間というイメージとは、全然違う。そういう先入観を捨てることにしました。

その週は、ボブジョーンズ大学で行われていた全国クリスチャン・スクール音楽大会でした。ジョイスは発生学とピアノ部門で参加しました。びっくりしたことに、両方とも優勝し(ピアノは2人選ばれます)、$50ずつの賞を手にしました。

沖縄の学校に、音楽分というものはなかったのです。姉妹と私は、他の学校活動をいっぱいしていました。スポーツ、学生新聞、年鑑、学生自治...友だちの中でピアノを練習しなければならなかったのは、私たち3人だけ。練習しなければならないと、いう思いだけでピアノが嫌いになっていました。

でも、ジョイスはとてもよくできたのです。音楽の賜物があるということは確かです。一歳半で歌い始めるようになり、ピアノを弾き始めたら、コードの観念を自分でつかみ、自由に転調したりすることができました。

 音楽学園に入る時、オーディションで教師はジョイスの実力にビックリさせられ、ジョイスだけは、すぐ入学したい、妹2人は他の人のように補欠人名簿に載せられ順番待ちになると、言ったそうです。両親は、それはできない、3人同じようにすると行って、私たちは同じ時にその学校に入りました。(私たちがジョイスのために早く入れられたのか、ジョイスが私たちのために待たされたのかは、分かりません。)

3人のなかでジョイスが一番できた

音楽がどんなに好きでも、友人はみんな他のことを楽しんでいるとしたら、苦痛に感じます。ジョイスも、高校生になったとき、大学に行くとき、音楽以外のものだったら勉強するけど、音楽は絶対いやと言って母を困らせたのです。

 3人がピアノの練習を苦しんでいるのを見て、母はこう言いました。「神様はあなたたちに音楽の能力を与えている。神の前での私の責任は、その才能を磨くこと。プロにならなくていい。主のために使うことができるところまで訓練してくれたら、マミーは嬉しい。その前に止めさせたら、あなたたちは、いつか、きっと、マミーをうらむ。」

 沖縄の学校で一番強かったのは、スポーツ部でした。しかし、ジョイスが高3になったとき、ファーロの時期でアメリカに返らなければならないことになっていたのです。卒業する年に新しい学校に行くことをジョイスはあまり好ましく思えませんでした。

しかし、この学校では、音楽部がとても強くて、スポーツ部の方が弱かったのです。ジョイスは高校のトップのコーラスに入り、ミシガン州のコンテストにトップレーティングをとって、ミシガン州高校女声コーラスの一員と選ばれ、ミシガン州の高校トップ40人ピアニスト・コンテストにも招待され、インターロッケン音楽キャンプにも無料で行くことができました。この年まで、ジョイスがどれ程できるか、分からなかったのです。

アメリカのクリスチャン大学のなかで、いちばん厳しくて、いやに聞こえた所は、ボブジョーンズ大学でした。でも、その音楽コンテストの一週間で私たちの考えは、変わりました。

家に帰ったとき、ジョイスは家族に発表しました。あきからは、ボブジョーンズ大学に入学する、それに、専門は音楽教育にしたいと、言いました。ピアノ練習をしなければならないと厳しく言い続けていた母...ジョイスの悪い態度に心配していたに違いない母...は、その日、とても嬉しくなったのではないかと、思います。

ジョイス、ベルクリーでピアノ練習

2026年7月22日水曜日

選民でさえまどわされる?

キャシーの救いのために戦っていたとき、両親は、新福音主義との問題と戦っていました。

高校生の私に理解できた説明はこういうことでした:新福音主義というものは一つの定義で十分に、正確に説明されるようなものではなく、水が器の形をとったり、温度によって質も変わるように、この「主義」も、態度・流れ・強調点の移り変わり・絶対的権威の溶解などをあらわします。(作者:2026年振り返ってみると、1970年代の「新」に見えたものでも、早く「旧」になりました!)

ある所では、世との分離が軽視され、他の所では、未信者と手を組んで、真理をゆるめた伝道法にちからを貸します。また別の人は、これと違って知的事柄を重視して、聖書の教えを科学・歴史・哲学・文化・心理学に合わせようとします。

声をあわせて~

いま描いている新福音主義者は、以前の私たちだったということを忘れないでください。この立場を指示する者は、意識的に神に背いているのではなく、心から神を愛しても、父母のように、この誤った道に入ってしまった者が多いと思います。これがマタイ24:24の意味しているものだと思います。

…できれば選民(真のクリスチャン!)をもまどわそうとして…」。

アメリカに帰って最初の日曜礼拝は、創世記22:2からでした。

「神は仰せられた。『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』」

沖縄の愛する兄弟姉妹。主に与えられた尊いものを献げるようにと言われいたみたいでした。次の年のことを考えると、どう計画を立てて行けばいいか、分からなくなってしまいました。

宣教団体が何かの形で立場を変えてくれて、総動員伝道などの新福音主義伝道に加わらないで教会の仕事を続けることが許されたら、このまま沖縄に帰られるかもしれない。これがいちばん好ましい。

一方、沖縄の教会の仕事を続けるために、自分の信念をおさえて、主流のやり方と合わせてくださいと、言われたら...別の宣教団体を探さなければならない、あと一年は沖縄に帰られないだろう。沖縄の教会の兄弟姉妹も、その一年間、何が起こるか、分からない。

バプテスト・ミド・ミッション?

沖縄にいたとき、新福音主義についてのアンケートがアメリカの教会から来たり、父母はクリスチャンにいっぱい手紙で、このことを聞いたりしていました。もちろん、極東福音運動宣教団体(省略F.E.G.C.)にも文通して、今度は、直接事務所に何回も行きました。

母が大学時代、彼女が出席していた教会の牧師が、その教会を出て、現在根本主義のバプテスト宣教団体の副長になっていることを聞き、その先生にも相談することにしました。

誤った道に立っている間、正しい道は見えない。心の平安を、道しるべとして、正しい歩みを求めるようにと勧められました。

心の平安。自分の気持ちとして、母は沖縄の霊的子供のもとに、すぐにでも飛んで行きたかったのです。愛する沖縄の家族のようなみんなに。しかし、祈れば祈るほど、心の平安がなくなるのです。「あなたの愛している子を...わたしにささげなさい。」

2026年7月21日火曜日

そうかもしれない?!

 

ジューン、裏庭で

学校では、正しい道のことをスタディホールでキャシーに分かち合っていました。けれど、家では.....ひどくなっていました。

私がいない方が家族は楽だ。でも、自分を殺すことは、できない。クリスチャンの命は、自分のものではない。じゃあ...家を出よう。私は、自分がたまらないほど嫌になって、逃げようと思いました。網戸を開けて、走って行く所でした...が、止まりました。3つのことのために、止められました。

1:行く所が、実際なかった。(アメリカに帰って来て一年だけだったので、あんあに多くの人を知っていたということではありません。)

2:お金がなかった。(現実的でしょう。)だけど、1番と2番だけでは、家を飛び出ていたと思います。何とかなると、いう必死な思いで。3番目の理由で全く止められました。

3:証が、どうなる。私たちは、高校に入ったときから、とてもオープンに証していたのです。ジューン、今逃げたら、みんなに何言われるか、分かる?「ジューンはクリスチャンだったけれど、問題が負いきれなくなった。そんなキリスト教は欲しくないね。」それに、いままで訓練してきたキャシーは、どうするの。彼女の信仰が、ジューンがいま行っちゃったら、だめになるかも。ダディーとマミーの宣教師としての働きは?ジューンがこんなことしたら、やめなければならないのよ。神も家族も忠実なのに、足りないのは私、罪深いのは私なのに...自分勝手に家出したりしたら、みんなの証がだめになる。

こんなこと、できないと、思い、自分の後ろにドアを閉め、そこに座り込みました。生きることは苦痛。死ぬことは、できない。家にいることは、家族を困らせるだけ。逃げることはできない。あたまが回らなくなりました。

日が沈み、外は暗くなっているのですけれど、私は動こうとしません。家の中で私の名前が呼ばれているのが聞こえますけれど、何の反応もしません。母は外の電気で私の座っている姿を見て、ドアの方に来ました。

「また、どうしたの。」(こういう問題を起こすのは初めてじゃなかったので)

私は仕方なく立って、家に入り、地下室に下る階段がそこにあったので、2,3段下りて、レールをつかみ、下を向いていました。

「どうしたの。」

「わたし...」口に出すのに時間が掛かりました。「家族のひとりとなる資格はない。」

何の返事も返ってきません。マミー、何考えてるの。どうして何も言わないの。家族の一人になる資格がないと言ったのに、どう思うの。

「そうかもしれない。」

えっ?

「そうかもしれない。」と母はゆっくり言いました。「だけど、神様の家族のひとりになる資格のある人は一人も、いる?」

母は、私の目を、自分自身の罪深さ・みにくさから離させ、神の愛に向けてくれたのです。主はこの私をも愛していることに。イエス様は、この私のために死んでくれる程愛してくださったことに。目から流れ出る涙は止まりません。神様は、私を愛している...この私を!

そして、イエス様が死んでくださったのは、このみじめな、罪だらけな、なさけない者を、十字架にはりつける為。実際、ジューンは十字架で殺されたのだ。神がいま望んでいるのは、イエス様のきよい命が私を通して生きること。私を通して!

汚れた]私はキリストとともに十字架につけられました。もはや[けがれた]私が生きているのではなく、キリストが私[の体]のうちに生きておられるのです。いま[ジューンという]私が、この世に生きているのは、[ジューンという]私を愛し、[ジューンという]私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20

ペテロが水の上を歩こうとしたとき、自分の足元を診たり、波を診たりして沈み始めました。イエス様を見上げたとき、水の中から引き上げられました。そのときの私も自分の弱さ、周りの困難を見て、おぼれ始めていたのです。でも、あの晩、母に助けられ、主イエス・キリストの十字架に目を止めることができたのです。私の生活は、一晩で変わったとは言いません。でも、そのとき、私は自分の「失望の沼」から這い上がることができて、生きた感謝と希望が与えられたのです。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私の方に身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足をいわおの上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、我らの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。詩篇40:1-3

しなけれがならないことを少しづつし始めた

高2の残り、新しいジューンが生きていること(実際はジューンじゃなくてイエス様)を、なんとなく感じました。失敗することがあっても、以前のように人の目を気にしたり、すぐ傷つけられたり、落胆したりすることが少なくなってきました。イエス様の命を生きるために歩みを整えていく。この戦いは、イエス様と私だけの秘密。孤独と欲求不満を感じるより、神様との新しい関係を喜ぶことができました。そのあとの数年、申命記32:12前半をじぶんのものと考え始めました。

ただ主だけでこれを[ジューンを]導き......

それに、そのとき示されたのは....私の「失望の沼」の経験は、私の祈りの答えだったということ!小6年の後のキャンプのことを思い出しました。フルタイムに献身したことは、覚えていましたけれど、その後の祈りのことは、すっかり忘れていたのです。

私は多くの証を聞いていました。罪を経験し、罪の傷を知って、その状態からーー大人になってからーー救われた人は、多くの場合、感謝に溢れていて、決心なクリスチャンだったのです。一方、子供の頃からクリスチャン・ホームやクリスチャン・スクールで育った人は、多くの場合、そういう恵みを当たり前と考え、生ぬるいクリスチャンだったのです。

なぜだろうと思うことがありました。そのとき一つ分かってきたのは、罪を憎む、罪から遠ざかろうとするのは、自然に主を愛し、善を慕うようになる、と。

祈るのは怖かったのですけれど、祈りました。私に悪を憎むこと、主を愛することを、どんな経験を通してでも、教えてください、と。その祈りのことを忘れていたのですけれど、神様は、ちゃんと答えてくれていたのでした。

高1年にあがる時、母に言われていました。「試練を通るちからが与えられるのを祈るはいいことだけれど、ジューンがいつか主にその試練自体を感謝するようになる。マミーはその日が来るのを楽しみにしている。」と。その時は、「試練自体?まさか!」と思いました。

しかし、その2年の時、私の通って来た「沼」が祈りの答えだったということがわかると、感謝せずにはいられませんでした。

TONIの悪夢

2年生になったとき、ニューヨーク市からルームメイトがいました。彼女は救われる前、麻薬を使って L.S.D.まで使っていました。そのため、救われて麻薬を完全に止めても、時々恐ろしい悪夢を見ることがありました。   ある夜中、トニー(彼女の名前)のベッドの方から血の凍るような悲鳴に目...