「恵美の誕生日のブログ」に載せた写真は、私が産婦人科で彼女を抱っこしているもので、ランカスター夫人と一緒に郡山BCの前で撮ったのは、友人にメールした別なものでした!これです:
2026年9月19日土曜日
すみません!
どーでもいいことをかなえてくれる神様
普通にうめばよかったのに。
最初の子は(娘恵美)、予定日より早く、家で生まれてしまいました!主人が起きて動き回っていた朝でしたけれど、仕事に出かけていませんでした。産婦人科に「赤ちゃんが産まれてしまいました」と電話して、看護士が来るまで娘をタオルにくるんであげたのは主人です。神様を知らない人間は、「ご主人がいて、ラッキーだったね」と、言うかもしれません。見守りを感謝するしかありません。
息子の出産の入院のことは、あまり覚えていないし、思い出したくありません。帝王切開手術傷口が治るときは、なんというか、ハミガキチューブが下から絞られているような痛みがしました。(帝王切開は出産が痛みがないから楽でいいねと、知らない人は言うかもしれませんけれど、全くないわけではありません。)その時、ベテラン宣教師ランカスター先生夫人が優しく聞いてくれました。(恵美の誕生日ブログの写真の婦人)暖かい心をとてもありがたく思います。
春山産婦人科の看護婦・スタッフの人・入院している人には、自分の気持ちを言っていなかった。だけど退院する前のランチに出てきたのがスパゲティだった!
ちょっとしてから敬真を教会に連れて行った。私の妹ジャニスがアメリカから送ってくれた水色のベビーキャリーチェアーに座らせ、恵美と一緒に牧師館で写真を撮りました。これは、数年前それから描いたものです。
どうでもいい祈りを答え・心の願いを大切にしてくれる、この優しい神様が、ご自分の愛をフルに子供たちにも表してくれるようにと祈り続けるしかないのよね。
2026年9月15日火曜日
斎藤ネコちゃん
郡山市で私の子供2人を出産し育てました。布団生活しか知らない日本人には、添い寝は自然かもしれませんが、米国では、ベッドを使って、赤ちゃんはゆりかごやベビーベッドに寝かせたりして、添い寝の習慣は、ありません。
恵美は幼いときから、救いのことがはっきり理解していなくても真の神様の愛を感じて、もちろんみ~んな信じているよねと、思っていました。幼稚園の仲間のほとんど・先生たちもが違うということにガッカリして、ある週すごく悲しいことがありました。
その数日後、祖母から電話があって、その日曜の晩泊まりに誘われました。祭りに行けなくても、お祖母ちゃんの所が絶対イイと、恵美は大喜び。
神様、ありがとう!別な用事で幼稚園に行ったとき、掲示板で、恵美の折り紙を見た。鬼ではなかった。形はみんなと同じだったけれど、クレヨンで描いた時、鬼の角を耳に変え、顔を・・・自分の好きなネコにした!あらら。
2026年9月7日月曜日
BISWAS先生たち、また来れるかな
7月に、また来てもらって、今度はゆっくり話をして2人の証を聞くことができたり、お土産の使い方も見せることができた。早くも9月になっちゃっている。また来てくれるかな。
2026年9月5日土曜日
逆さに咲いていた
思いがけずこのような結婚の祝福に導かれたことに感謝しましたが、日本語学校を卒業したばかりの私は、日本人の夫にとってふさわしいパートナー、支えになれるのだろうかと不安でした。
不安を抱えながら、夫の故郷である郡山市に引っ越してきた。家の近くには「三角公園」があり、その近くの木々の花は満開だった。ああ、その花の咲き方は、親友と東京の公園を散歩していた時に見た光景を思い出させた。
数ヶ月前、彼女はベビーカーを押していて、狭い小道を曲がるために少し頭を下げたとき、私に上を見るように言いました。正確な言葉は覚えていませんが、彼女は、神様が花を下向きに咲かせるようにしたのは、下を通る人のことを気遣ったからに違いない、なぜなら、下を通る人だけが上を見上げたときに花を見ることができるからだ、と言いました。
「三角公園」で、自分の拙い日本語を問題視するのではなく、むしろ特別な恵みをもたらしてくれるものだと気づいた。
実際、気づけば夫は私の日本語があまり上手ではなかったため、セールのチラシや子供たちの学校からの書類、郵便物に入っている様々な通知などを私と一緒に読んでくれていました。斎藤家が他の家族よりも強い絆を築けたのは、おそらくそういうことだったのでしょう。
最初は頭を下げなければならないような気がしたけれど、顔を上げると、花が咲き誇っていた!
「ご自分の御子さえ惜しまずに、わたしたちすべてのために与えてくださった方が、どうして御子とともにすべてのものをわたしたちに与えてくださらないでしょうか。」
(ローマ人への手紙 8:32)
2026年9月3日木曜日
東京バベルの塔 - おわり
2人沖縄に行くのでなく、だれか一人は東北無僕教会の援助に残りませんかという声が来た。一年間だけでいい、現在ファーロ中の宣教師が米国から帰って来るまででいいということだった。ジャニスは、日本語学校前から、沖縄でミニストリーを始めていた。沖縄宣教に召しを受けているだけでなく、既に1年も、それから離されていたようなだった。
「誰か一人?」と、ジャニスは、はっきり言った。「私は沖縄に戻らなければならない。だれかが残るんだったら、ジューン、それはあなたになるのよ。」自分としては、神様の愛と救いの命のメッセージを伝えたい、それが沖縄であれ、東北であれ、…そのときは、数年前より結構薄くなっていたのに気がついた。
ということで、ジャニスは沖縄に戻り、私は神学校卒業生(丹野容子姉)と一緒に毎週金曜電車で東北の教会に行って、家庭訪問・聖書研究等をして、日曜の夕方帰って来ていました。大変でしたけれど、霊的にすごく恵まれ、丹野姉と強い絆を結ぶことができたと思います。
また順序メチャクチャになっちゃいます:その丹野姉と一緒に、団地5階のアパートに住んでいました。そこに来たのが、神学校の教師にお願いされた、あの励ましのカードをくれた伊芸恵美子先生だったのです!そして・・・ちょっとしたら、宣教師先生から呼ばれました。近いうちに短期宣教師が2人来る、ジューンの所に住むことになっていた(伊芸先生は丹野姉妹と部屋は一緒、大部屋にマットレス2人分敷いたら全然間に合う)。
妹がいなくなったら寂しくなると思ったけど、かえって急に交わりがにぎやかになる!皆が来るまえに、アパートを準備しなければならない。
欣也は、覚えていないと言うけれど、私は、ジャニスを沖縄に送ったあと、東京に戻ってきて、沖縄の暖かい気候・寒い東京の冬の気温差が急過ぎたのか、熱が出てしまった。おまけに風呂が故障した。もうろうとした気力の中、教会に連絡したと思う。スタッフの斎藤欣也兄が来て直してくれた。
このニコニコしている若い2人、だれ?
短期宣教師が来た時、あのアパートに住むことになったのは、日本語で話す2人(丹野姉・伊芸先生)、英語で喋る2人(短期宣教師)、と私1人でした。日本対アメリカの問題にならないように気を付けなさいと、宣教師に注意されたのを覚えていますけれど、その一年だったの:神様の不思議な導きで、欣也との結婚の結婚という祝福に恵まれたの。
その結婚のことを色々考えたり、悩んだり、祈り合ってくれたりしたのは、あの「問題になりうる」数人だったのね。旧約聖書では人間が自分の力を誇って建てようとした塔だったけれど40年前は神様の力を祈りで一つになっていた人たちだったのね。だから結果が違ったと思う。
母はバイブル・カンファレンスの時まで、斎藤欣也兄のことは、知らされていた。夕食を欣也と私、父と母で外食しに行った。
「主の導きは不思議ですね。」と母は欣也兄に言った。自分も経験していたからであった。
バイブル・カンファレンス特別賛美
そして、その忠実な導き:今までのこと、これからのことを、その後、特別賛美として、大城家は特別賛美をした。思った。自分は同じ忠実な神様、を賛美するけれど、「大城智子」じゃなくて、これからは「斎藤智子」として賛美を献げることになるのね。
* * * * * * *
沖縄生まれ、救い、クリスチャンスクール、献身、書き始める、聖句暗記、病気、「沼」、キャッシー、ボブジョーンズ、チョークアート、結婚。
さてと、続きはどう扱うことにしようかな。
郡山、出産、英語、健康、震災、教会、公園、動物、アート、葬儀、海外、引越、等々・・・それに、今すぐこれをすべきなのか、他のことに時間を割くべきなのか分かるように祈ってちょうだい。(私、書くのが好きだから疲れても、つい夢中になっちゃうの。)
2026年9月2日水曜日
婚約指輪みたい?
夏に、沖縄に帰ったとき、最初の日曜に、家族はLiving For Jesus(イエスのために我生きん)を特別賛美として証しました。
①イエスのために我生きん・御旨の業励みて・仕えまつることこそ恵みうくる道なり
②我の罪を十字架で・我に変わり負い給う・かかる愛に答えて・全て献げ従わん
③いかになれど主のため・御名により業をなし・苦しみをも負うべき・十字架として忍ばん
(おりかえし) 救い主にこの身ささげん・あがないのため死に給いし
主こそ我が君我が王なり・いまよりひたすら主のため生きん
歌いながら、教会の愛する兄弟姉妹の顔を見て、心は感謝でいっぱい、目は涙で溢れそうになりました。家族一人一人を守り、導いてくれたことをありがとう、ありがとうと、何度も祈りました。
高3の時に与えられた約束を思い出しました。
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:15
父に与えられたみことばも:
「あなたの将来には望みがある。ーー主の御告げ。--あなたの子らは自分のくに帰って来る。」(エレミヤ31:7)
沖縄に帰って最初の1カ月は、結構忙しかったです。アメリカから届く小包を整理し(これは、誰が送ってくれたか、覚えていますか?そう、しばらく彼女の家に住んでいた、Shirley Lampさんからでした。)ジャニスと私は急いで荷物を整理し、東京に行って日本語学校の勉強を9月から始めることになっていました。
具志川バプテスト教会の夏季学校で教え、数日間は台風が沖縄に来ました。それと同時にもう一つ大きな「嵐」:教会で大きな問題が発生し、父と母はとても必要としていた休みをキャンセルして信者の家をぐるぐる訪問したり、電話をかけたりしていました。
私たちもいつかは、こういうことをしているのねと、考えさせられました。やはり宣教師は、神様に選ばれた器であっても、ただの人間、教会員ひとりひとりの祈りと励ましの言葉が必要と、はっきり見えた。先生が一方的に群れを導くだけではない、羊一匹一匹が、聖霊の助けが、人間の羊飼いに与えられるように、ずっと祈って支えてあげなけれがならない。
自分が日本語学校から帰って来るときまで、自分のために祈って支えてくれる教会員が育っているかなと、思うようになった。
高3の証は覚えていた。今度帰って来た時は通訳者を通してでなく、自分で証したいと言った。私は小3の時、一晩で英語の続き字を覚えた。バカじゃないと頑張った。今度は、宣教師に日本語を教えてくれる所があるから大丈夫。神様、助けて下さいね、と祈った。
ボブジョーンズを卒業した年、宣教団体に貰った証明書は、前の年に貰ったものと違うと気が付いた。今度は、自分の名前の下に「宣教師」と表示してあったし、トップの先生のサインがあった。その前の年は、それらがなかった。「入団約束カード」だったの?婚約指輪みたい?なんだか嬉しい。
今度は本当の宣教師になっているから、宣教師の語学学校で勉強してもいいのね!
父母はカナダ・ハワイで日本語学校で勉強したから、宣教地に出て来る前からキレイな日本語を使っていたけれど、ジョイス・ジャニス・と私は、光の子幼稚園以外、学校は英語だったので、漢字は、小1-2年生レベル以上のものは、ほとんど読めませんでした。大学にいたとき、沖縄のおじさんに証の手紙を出すため自分の新改訳を辞書として使っていたのを覚えています。
前にも沖縄にいたとき、心の気持ちが日本語で伝えることが出来なくて、欲求不満を感じたのを覚えています。東京に言って、一生懸命勉強し、日本語をもっと自由につかえるようになりたいと決心しました。
妹と一緒にされ、周りの人は、勿論同じだと思われました。ジャニスは1年先に沖縄に送られ、生活・言葉・習慣になれて、私は1カ月きたばかりでした。日本語学校では、その学期卒業する生徒2人と一緒にされました。1年間も日本語に聞きなれていたジャニスには問題ありません。でも、私は...とても大変でした。
ジャニスは、家に帰って、宿題を15-30分でパッパッパッと済ませていました。私は、質問に答えるところか、質問の意味さえ理解するのに苦労しました。ジャニスは他のことをちょこちょこやって、部屋に帰って来ると、私はまだ宿題をしているのです。
「ジューン、一体何してるの。完全主義者だからだめなのよ。あんまり細かいところまで考えるから。きれいな文を作ろうとしないで、正しい返事を出したらいいじゃない。」と言われてしまいました。
完璧を求めていたというより、正しい言葉も頭に浮かばなかったのです。そういう時、おぼえているのは、励ましになった一枚のみことばカード。東京に出かける前、教会スタッフの伊芸恵美子先生から頂きました。日本語学びを祈りますということで、こんなに見るようになるとは思ってもみませんでした。神様、伊芸先生の励まし、ありがとう。
それで、JMLI宣教師は普通2年コースですが、ジャニスと私は1年で終了することができました。
日本語学校が終ると、すぐ東北の子供キャンプの講師をお願いされました。ジャニスは小学科を教えて、私が中学科を取ることになりました。やはり、自分が教えたのは、ギデオンの話。(教え方は、色々あります。毎回同じレッスンを教えているわけじゃないです!実をいうと、自分が一番好きなのは、自分が大学生の時に旧約聖書の授業で聞かされた説明です。いつか、それを分かちあいたいと思うのですが、子供の教え方ではないので使うことはないと思います。)
ギデオンの話は、めぐみバプテスト教会の「ロバの子会」でも1カ月教えたと、ノートに書いてありますが、全然覚えていません。覚えているのは2つ。1)三田紘一先生にビデオをお願いされたとき、最初は、怖くて「できない」と断っていました。だけど、ジャニスがこう感じました:神様の仕事をするために勉強をした。だったら、できないと、言うのは、おかしいんじゃない、と言ってくれました。2)チョークアート。雄弁家でなくても、言葉でなく絵でコミュニケートする。デピュテーションのために、英語で少なくても6回して、今度は日本語で6回したから。
2026年9月1日火曜日
行くつもりはなかった、神様のアポイントメントだった
3年目の終わり頃、ジョイスのサポートは95%、私のサポートは80%近くありました。それで、直接デピュテーション集会から手をはずし、一カ月は、宣教師伝道コースのためにインディアナ州にある教会に行きました。
そこでは、一カ月、特別準備されている家に泊まり、午前中は授業、午後は訪問となっていました。朝は、主にその原則を説明したりするためのもの、実際練習するためのものでした。証というものは学問的ものでなく、クリスチャン一人一人が実際やりながら分かってくるものだと思います。授業では、もちろん、実用的案も出ましたけれど。
御言葉のメッセージを心にたくわえ、証する時は、相手と聖霊との対話だということを心にとめておく。この2つの原則がいちばん為になったと思います。
コースはちょうど2月だったので、雪で訪問に行けない日がいっぱいありました。実際話が出来たのは、7人ぐらい。でも最後の日にRick Christianという大学生を救いに導くことができました!
行くつもりはなかった
本当はこの人を訪問しようと考えていたのではなく、他の所がダメになったので、そこにある一軒に行ってみようかなと、思い、Rickの家に行ったのです。そして、Rickの心の備えられているのにビックリしました。Rickのお父さんは牧師だったので、教会で育っていたので、ある程度聖書のはなしには慣れていましたけれど、十字架の意味を聞くのは初めてだったのです。この素晴らしい話を伝えることができたのを特権だと思います。
聖霊の導きに従うことの大切さを学ばされました。ジョイスと私は次の日、ミシガン州に帰ったので、Rickのファローアップ・信仰成長のことを聞くことはできませんでした。
デピュテーションは、この宣教しよう個人伝道コースで終わりました。宣教地に出ていく前に、失われた魂に神様の愛と命のメッセージを届けるということに焦点を当てることができて、とても良かったと思います。
(デピュテーションから宣教師にバトンタッチしているイラストを祈りの手紙に載せました。)
2026年8月31日月曜日
おどうさんの話と同じ
それに、ほとんどの人が宣教地に出ていくのは若い人と思いますが、自分が覚えていたのは「永田おじい」でした。デピュテーションの時に話しましたが、おじいちゃんは退職後であったにも関わらず、沖縄の教会の青年が離島伝道を計画した時、一緒に行くと言ってしまったのです。
ところが島では、一握りの年配の人たちが集まって、彼らは島の方言しか分からなかった。それが沖縄本島の年配の人が分かる方言に通訳された。長田おじいちゃんは、これが理解できた。伝道チームの若者は体が丈夫でトラクト配布ができても、肝心なコミュニケーションは、長田おじいちゃんに頼るしかなかったのだった。
年配の人は6人ぐらい集まっていた。通訳を通して分かって来たことは、こういうことだった:自分たちが子供の頃、オドウというクリスチャンが島にいた。他の大人は救いの話を聞こうとしなかったので、オドウさんは、お菓子屋を開いて子供を集めることにした。子供たちに讃美歌を教えたり、聖書の話をしたみたい。親には禁じられたけれど、それでも子供たちは時々聞きに行っていたそうだ。だけど、誰も救いの決心をしないまま、オドウさんは死んだのです。彼の努力は見える所、何の結果も無い、無駄なものでした。
心に福音の種が蒔かれた子供たちは、大人になっても、忘れられない、もっと知りたいと思うようになった。6人が毎週集まって讃美歌を歌って、神様がオドウさんの話を教えてくれる誰かを送ってくれるよう祈り、あの「子供たち」は80~90代のおじいさん・おばあさんになるまで続いた。長田おじいさんの口からでた「福音」...これは、オドウさんが教えていたことと同じじゃないかと、心の準備が、されていた。
「こういうわけで、『ひとりが種をまき、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。
わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなた方を遣わせました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(ヨハネ4:37,38)
道の安全は主からのものでした。「もう少しで危ない所だった」という経験は今5つ思いだします。到着する5分前に車の下に穴が開いたり、高速道路を下りたすぐ後パンクしたり、雪でスキッドした時前の車にぶつからず道端のサインポストに止められたり、
曲がりくねった田舎道が急に交差点に出てジョイスがハンドルをいっぱい回したためにキューッつとものスゴイ音がし、見たら2台後ろからパスしようとした車が急ブレーキし、グルグル回っているのを見て一瞬間、何が起こったのか、分からなかったり…
デピュテーション中の「事件」は指をドアに挟まれた時だけです!
2026年8月30日日曜日
ダディーの背中
デピュテーションの2年目(私の1年目)は、父母は沖縄に帰りましたけれど、家賃は3人で分けて払っていたので安く済みました。ジャニスとジョイスのサポートも少しづつ高くなっていたので困りませんでした。父がファーロのために使っていた車も私たちの物になって、デピュテーションを始めるほとんどの宣教師のように車をてにいれることなど考えなくても良かったのです。スライド・プロジェクターも、テープレコーダーも、映写機台も、展示テーブルも揃っていました。
計画通り2年間でジャニスを沖縄に送ることができました。アパートの契約更新で家賃が上がる時、母教会のクリスチャン教師が私たちに一緒に住みませんかと、言ってくれました。それで、主に感謝し、この人の家に引っ越しました。(2年前アメリカに帰った時も、この人の家に泊まることになりました。東京まで小包を送ってくれたりしました。)
父にいつも言われていました。宣教師になるためには、3つのことが必要だと:1)ねばりづよさ。諦めないで、ただやり続ける。地味な、面白くない、結果を結ばないように見えるものでも、黙ってする。2)なんでもする(多才というのか、柔軟というのか、とにかく、何でも、いつでも、なんとかする。3)ユーモア感覚(ある状況に対面するとき、笑うしかない、そうできない者は泣いて宣教師を止めてしまう。
デピュテーションの経験でこれら3つのことは訓練されたと思います。
ダディー:「なんでも。ペンキ塗りも!」
教会にペンキ塗りの手伝いの手伝いをしたことがあります。(コレ、宣教師のする仕事?だけど、よく考えてみると、父は軍の捨てる建物の材料・ペンキで、宇堅と首里の教会を建てたりしました。平川の教会も、昔の診療所を修理して無料で使っていいということで具志川の教会になって…全部、ダディー、ペンキ塗りしてたのね。)
私たちの集会の次の日は、時間が空いていたので、一日長く泊まり、教会奉仕をさせて頂きました。着物を抜いてエプロンと普段着で一日ペンキ塗りをしました!
他の教会では、集会の途中、牧師が説教台から、「説教の時間、大城姉妹は子供たちに、お話をしてくれます。」と、発表しました。慌てて何か準備することがありました。
また別の教会は、他のうるさい家から離れてゆっくり休むことができる、伝道者・宣教師が泊まる特別な小さな家がありましたが、そこにはアイロンがひとつもありませんでした!次の日の服にアイロンをかけるため、鍋やキュースにお湯を入れ、服の上にのせたりしました。
ベッドに隠れていたハチに刺されたり、雪で教会にとじ込まれたり、教会の人が描いてくれた道が集会の日まで工事で変わったり、証を始めようと思ったとたん電気が消されたり(スライドプレゼンテーションが先だと思われていた)...デピュテーションは、色々ありました。
2026年8月29日土曜日
母の祈り
集会の前にひどい頭痛を感じることがいっぱいありました。3人同じぐらい経験したと思います。いま考えてみると、サタンの反対だとしか思えません。というと、祈って「頭痛のまま」教会に出かけ、プログラムに入ったとたん、痛みが止まったからです。(面白いことに、席に戻った時頭痛が帰って来たことがありました!)具合が悪くて集会に出られなかったのは、2回だけでした。それでも、3人いたので、すくなくて一人行ったので集会は続きました。
ある教会で集会が3つありました。最初の晩、ジョイスは高熱を出し、私は家に残ってジャニスが一人で集会に行きました。シンプルな婦人の集まりだったので、一人で十分だったと思います。ちょうど泊まっていた人の友人が医者だったので、電話し、ジョイスのことを相談し、薬を送ってもらいました(構成物質?)
頭痛・高熱・骨折もあった!
次の日まで熱はある程度さがったのでジョイスを一人家に残し、ジャニスと私が教会に行きました。3番目の集会は、ジョイスも来ることができました。この教会は、母が独身の時(75年以上前)サポートし始めた教会です。私が結婚すると発表してアメリカに帰ったとき、この教会の女性たちはシャワーを準備してくれました!
もう一つの教会では病気でなく、面白い事件が起こりました。準備が終わり、集会の前に少し休もうと女子トイレに行きました。アメリカの部屋は大きくてドアもかなり重いものです。ちょうつがいに圧力を使って開かれたドアを閉めるポンプ見たいな物がついています。とにかく、お手洗いから出て来る時、急に動けなくなりました。
私は左手の指一本がちょうつがいに挟まっていたのです!後ろに歩き、右手でドアを少し開けました。指は、電気が通っているようにビリビリ感じました(痛みとは違う感じ。)冷たい水を流し、指を流れの下に持つように言われたので、そうしました。すぐ隣に立っているジョイスの声が遠くなりはじめたので、「ジョイス、声、聞こえない!」と叫んだのを、覚えています。
あとで説明してもらいました。骨折の場合、からだ全体の血が痛んだ場所を守るため、一斉にそこに流れて自然なクッションを作り、骨を保護する。結果は体中が浮くような気持ち。なるほど。教会の副牧師の奥さんは、看護士だったので、隣の部屋で手当をすることになったけど、私は歩きながら、足が地面に着いているのが感じられなくなり、一瞬意識を失うところでした。
隣の部屋で少し休み、指を氷のうで包み、集会に出ました。最初の会衆賛美が終ったところだったので、私たちは、すぐプログラムに入り、何もミスしませんでした。勿論、ジョイスと一緒のピアノ・デュエットは少しの間休むことになりましたが、三味線は、工夫して他の指を使い、弾くことができました。レントゲンで骨折が確認された後、ギプスをはめたのですけれど、それでも三味線は弾き続けました。
前にも演奏したことがある「母の祈り」だったのです。
救い受きたる くぬわみや
親ぬ真心 悟とやびたん
くぬ心ゆ歌に 書きらわ聞きみそうり
うまんちゅうよ 聞きみそうり
母は私たちの為に祈ったのかな…
私たちは婦人会のグループに何回も話したので、この歌も歌い、母のための感謝、また沖縄のクリスチャン母親のことを話しました。
日本人の宣教師が来るということを聞いて教会にくる日本人もいました。沖縄からくる人は、方言の歌を聞き、涙を流していました。ジョイスはこのような人を2人救いに導くことができました。今はどうしているかな...私たちの地上での労苦の結果は天国に着くまで完全に分からないでしょう。
子供のときに母に話したことを覚えています。
「私、宣教師になってもいいけど、マミーは、私たちが宣教師になって沖縄に帰って来ることを祈ってるんでしょ?」
「マミーは娘3人が神様の導きに従うことを願ってるのよ。」
「でも、気持ちとしては、帰って来て欲しいんでしょう。そう祈っているんじゃない?」
「さあ、どうでしょう。神様が帰ってきて欲しいと言うなら、帰って来て欲しい。別な所に行きなさいと言うなら、来て欲しくない。」
3人が沖縄に帰るように導かれるまで、そう祈っていたことは言ってくれませんでした。
3人別々に、違う方法で沖縄宣教の召しを受けたのです。私の高3年のことはすでに話しています。ジャニスは、大学2年の後、沖縄のMAP伝道をして、帰って来るべきだということがはっきりわかりました。ジョイスは大学を卒業しても召しがはっきりしていませんでした。ジョイスの性格に意外な頑固なところがあります。
時々若い人は、親の足跡あとについていくだけでなく、自分の行く道を決めたいと思う人がいます。ジョイスはこれも間違っていると言っていました。結局は、親の反対の方向を選び、実際は親に影響されているのだと。神の導きを確認し、その道を歩みたい、親がそれを賛成しても反対しても、関係なく正しい道を見つけ歩みたいと、言っていました。大学卒業後、沖縄のマラナサ・バプテスト・アカデミー(ジャニスと私が高校を卒業した所)で2年間教師をしながら、自分で宣教の召しを確認し、沖縄に帰って来ることを決心しました。母が天に召される前、3人沖縄に戻って来ることになっていたことは感謝です。
でも、宣教師になって、宣教地で必要なものは、いま、デピュテーションで十分身につけた方がいいと、ダディーが言っていました。
2026年8月28日金曜日
余り過ぎじゃなかった
一緒に入団したの!
(エッドとジャンも見える?)
ある朝、CSが始まるちょっと前、私たち3人が3つのクラスを教えてもらえませんかと、お願いされました。ジャニスは三味線とか大きい、簡単な資格教材になるような物を持っていちばん年下のグループに行き、ジョイスは面白く説明できるものを小学生のグループに持っていき、私は中高生のクラスを教えることになりました(資格教材なし)。教師が出席をとったり、私を紹介している5分の間、あたまの中でレッスンを準備しました。(そう。あのギデオンの物語だったの!)でも、準備時間は、それだけ。祈って心を沈める時間もありませんでした。
話し始めの、途中で時間はまだまだいっぱいあり、話すことはほとんど無くなっていることに気がついて、あせりました。次は何のことを話そう、と。心の備えをしていないことを感じ、「神様、済みません!今祈りますけれど、どうぞこの者を用いて下さい!今とても困っています!」と祈りました。でも、こんな勝手な祈りはきいてくれるはずはないと、思いました。時計を見ると、時間がたっぷり残っている。
時間をうめるために、自分の中高のときの証をしました。冷や汗をかいていた様に感じました。クラスが終ったとき、泣きたい気持ちになっていました。レッスンは全然メチャクチャだった。もっと準備の時間が欲しかった。クラスの生徒はたぶんうんざりしただけだろう。この様なことをジョイスに話したことを覚えています。
それが、数カ月後、この教会から手紙が届きました。
「私は~教会の中高クラスの教師、Mr. ~です。覚えているかどうか分かりませんけれど、~月~日に私たちのCSで話してくれました。その時、ジューンは自分の中高時代のことを分かち合ってくれました。そのクラスにいた生徒から聞いたことですけれど、かれの友人がちょうどそのとき「失望の沼」を通っていたところで自殺のことを考えていたそうです。
ジューンの証を聞いて、そのことを考え直すところか、いまはフルタイムに献身するところまで進んでいます。」
「私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」
「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」 IIコリント12:9,10
2026年8月27日木曜日
デピュテーション・プラン
妹の卒業までは、なんとかなるけれど、その後の資料は、何がどうなっているか、順序がわからない。父・母のファーロ集会、私たちのデピュテーションミーティング、私のボブジョーンズ勉強が、全部ごっちゃ混ぜ。もうきれいに分けようとするのは、あきらめた!そんなの、どうでもいいよ。。。ね?とくに、自分のボブジョーンズ訓練は、宣教師になるための準備だったはずだから。本の「そのまえに」みたいなものじゃない?
大城家の「デピュテーション作戦」は、こういうものでした:最初の1年は、父母がファーロ中でアメリカにいるので、同じアパートに住み、父母が家賃を払ってくれる。(それで、デピュテーションの始めが月に$10だけのサポートても、全然困りませんでした。)
1年目:ファーロ・デピュテーション 2年目:3人でデピュテーション 開始
私のボブジョーンズ卒業式の日にシュルツ家の玄関にピンポーン。おじさんとおばさんが私の親代わりになってシカゴから来てくれました!(ジョイス、このように用いられて、ありがとう。彼女が悪い証になっていたら、こういう結果には、ゼッタイなっていなかったでしょう。)
2年目から3人いるから家賃は3人で割って安くなるけれど、3人デピュテーションを済ませるのは、時間がかかる。デピュテーション・チームを組むのは、ジョイスと私が一番よく合うので、ジャニスを先に送る。ジョイスのサポートを次に集める(私より1年前から始めたので少しは既にあるはず。)(車を運転しない私の必要サポート額が一番低い、集め安い、最後に始めても、問題ないはずということでした。
3年目:ジャニスを先に送る
実際、教会も助かったと思います。3人の宣教師を見て、沖縄伝道の為に重荷を持たされても、誰をサポートすべきか分からなかったら、困ったと思います。私たちの方から「~にサポートを送ってもらえませんか」とお願いした方が、協力したい教会も動き安くなったのではないかと思います。
2026年8月26日水曜日
アルミイーゼル?!
シュルツ婦人と
ボブジョーンズ大学の最後の1年は、寮でなく、シュルツ家族と一緒に住むことになりました。Jackieさん(お父さん)は、私のデピュテーション用チョークアートイーゼルを作ってくれました。チョークとか他の道具も入れて持ち運ぶことが出来る、ポータブル、しかも頑丈なウッズケース、スゴク便利な、よく考えて作ったものでした。シュルツさんたちは、私を娘のように愛してくれました。休学するために探した所が、こんなステキな祝福になっていました。神様、ホントにありがとう。
* * *
学校に帰って来て最後の一年間、自分の気持ちにちょっとビックリしました。心のどこかには、まだまだボブジョーンズで勉強したいことがいっぱいあるという気持ちがありました。一方、特に自分は数回宣教地に行ったり、実際の仕事をしたりしていたので、早く戻りたいという気持ちがあって、ボブジョーンズには居られないという、落ちつかない何かが動いていました。
ジャニスの卒業、私はあと1年! 宣教団体入団口頭試問語、ピクニックで休憩
これを書いている時に気がつきました:その最後の一年の写真が、ほとんどありません!沖縄宣教のことで頭がいっぱい、大学生活のことは、あまり興味がなかったみたいです。
ジョイスは2年間短期宣教師として沖縄の学校で教師をしている間、フルタイム宣教師として帰って来る導きが与えられました。ジャニスが卒業した年、ジョイスはアメリカに帰っていました。妹、姉、母も宣教団体に入るので、私は学校があと1年残っていますが、例外、家族と同じ年に入団が認められるとバプテスト・ミド・ミッションは言ってくれました!
団体に入るための口頭試問に一番ためになったのは、重に2つ:
1.父母の1975年にとった行動。自分の信仰・立場を考えさせられ、聖書を自分のためにさぐり始めたからです。
2.ボブジョーンズでの教理の授業とローマの授業。知識的質問の答えは大部分この2つの授業で学んでいました。
順序がおかしくなったと言ったでしょう?
やはり、あの霧みたいな問題で色々考えさせられたのが1番だから、そこまでは、この本で先に伝えたけれど、今度は上記のボブジョーンズでの教理の授業のこと。バプテスト・ミド・ミッション入団口頭試問の全然前だったんだけど、言ってなかった。
実は、私は、授業中、先生が皆に難しい教理的質問をするときに、参考のため、いつも自分の日本語の聖書を開いて調べていたの。数回、他の返事がない時、日本語を読んで、そっと手を上げて「いいですか?」と新改訳の角度からの説明を言ってみた。嬉しいことに、先生の求めていたことだった。
新改訳? けっこう以外な役もあった!
ある授業後、教師に引き留められた。
「ジューンが使っているのはどういう訳かね。」
「この参考?沖縄の教会で使っている、日本語の新改訳というものです。」見せました。珍しそうに聖書のページをめくっていました。学校は英語の欽定訳聖書を使っていたので。
「日本語?」先生は笑顔を見せて聖書を返してくれました。「じゃ、私は英語のものにするけれど、ジューンの使っているもの、とてもいい訳みたいだよ。」
これを言うの、忘れていた:日本語聖書の、私のもう一つの「使い方」:今はコンピュータですぐ調べたりすることができるけれど、当時はそれが出来なかったから、私は変なことをしたの。日本語で言葉が分からなかったときに、同じ単語が出て来る聖句を、新改訳で調て、時々は、どういう言葉が使われているか分かったの。
これは、勿論、ある程度でしかできないことだけど・・・それに、宣教師に日本語学校ではゼッタイ、ぜったい勧めません!ノーグッドです!
また順序違反:ジャニスの卒業写真を見せたばかりなのに、このことをします:一緒に授業をとったことがあるのです。どっちも誰とも付き合っていないのに、いつかは役にたつかもしれないということで、「牧師夫人」という授業を受けました。
教師2人で教えられることになっていましたけれど、2人目は都合が悪くなって彼女の代わりにジョーンズ婦人(学長の奥さん)が教えることになりました!最初からある程度決まっていても、困る状況をさけるために、公にできなかったのではないかと思います。とにかく、その時授業を受けていた私たちは、思いがけない祝福を感謝しました!
ジャニスと私は、数千人の教会にいくつもりは、ありませんでした(あの牧師夫人クラスの多くの女性たちは、そういう教会を牧会する人を支えることになると思います。アメリカの教会は大きいので。)でも私たち2人は、これからの女性たちを影響しよう等考えていませんでした。ジャニスと私は、沖縄に向かうただの宣教師でした。
それなのに、みんなと一緒に一学期ずっと、ジョーンズ婦人の素顔を見て、彼女の生声を聞くことができました。
沖縄に向かうだけ。
沖縄の姉妹が「母の祈り」という賛美を沖縄の姉妹が方言で作詞したものです。私はボブジョーンズでΘMΘという、「社会」に属していました。スポーツだけでなく、音楽・スピーチ・ドラマと、大学生活に関するものには、チームをだすようなものです。このΘMΘの集会で「母の祈り」を沖縄三味線伴奏で賛美させてもらいました。「沖縄宣教を忘れないで祈って下さい。」と、心の中で泣いて願ったのを覚えています。
日本語が教えられていたら、受けていたと思いますが、残念ながら、なかったので、言語選択としてスペイン語を選びました。感謝なのは、その教師が言葉が上手になれなくても、
スペイン語で聖句を暗唱するのは、すごく厳しかった。外国語をキレイに話せるのは賜物かもしれない。だけど聖書暗記?誰にでもできるはず、と彼女は言った。
Claudia Loftis
その冬休み、メキシコから来た人に会って、証しようとした時のことを覚えている。普通に話そうとした時は、結構つまづいたりしたけれど、聖句引用のところにきたら、スラスラに言えた。あの先生のおかげ、完璧に覚えていたからだった。
いま思ってみると、個人伝道でも、何でも、やっぱり、御言葉がはっきり伝えられ、その後は、聖霊に委ねて、聞いた人の心の中に聖霊ご自信が働くのを祈ればいいのね。自分のことばは、あまり関係ない、かえって、邪魔になる方が多いんじゃないかな。私のスペイン語の先生、それを理解していたんじゃないかな。
“Si yo hablase lenguas humanas y angelicas y no tenga caridad...”ホラ、40年以上なっても、まだスラスラ出て来るの(コリント第一13章の始まり「たとい、私が人の異言や、み使いの異言で話しても、愛がないなら…」)
言うの全く忘れていた。この先生なの。私の健康のことを心配して、沖縄まで励ましの手紙を送り続けてくれたの。その時は電子メールがなかったから、これは紙と切手の手紙だった。
この先生、天国ではスペイン語で喋るだろうと言っていた。私はいつも抗議したかったけれど、彼女がスペイン語で話したいなら、スペイン語でいいと思う。
私は言語の専門家では無いけれど、何語でもいいから、福音を伝えて神様の愛を伝えて、罪の罠から逃げ出して命の明かりを伝えたい。特別音楽の天才では無いけれど、心が重く、暗く感じて、そして喜び踊るぐらい分からせる音は組み立てることができると思う。ちゃんとした美術の学びはない(一番最初のチョークアート授業のサムメイルを作って来る宿題に、初めてだったので、Dをもらっちゃった!)あちゃ~!!!だけど、それでも、美術は好き、何らかの賜物は、神様に授かっていると思う、神様の真理を伝えるために。
~ということで、シュルツさんが作ってくれた頑丈なウッズケースで、チョークアート伝道を、デピュテーションですることにした。そう、あと一年大学が残っていたけれど、姉妹と一緒に団体に入っちゃったから、宣教師としての重荷を分かち合っていたの。
チョークアートのことがあまりよく知られていないときに勉強したので、材料は結構お金が掛かった。大学生は、全部をいっぺんに買うことはできなかったけれど、少しづつ買って、卒業するまで、全部揃っていた。勿論、全部新品ではなかったので、中古品を集めたように見えたかもしれないけれど、私たちにとって、苦労して手にした大切なものだった。
ジョイスとジャニスと一緒にデピュテーションを始め、幾つかの教会で宣教の重荷を、チョークアートで話したあとだった。ボブジョーンズで、同じ教師にチョークアートの授業を受けた人が、あの教会に来ていた。
自分も宣教の重荷はあるけれど今は海外に行けないと、彼はいった。工場が要らないアルミニューム・スクラップを溶接してイーゼルを作ってみたけれど、ジューン、代わりに海外で使ってくれないかなと、プレゼントしてくれた。
当時のチョークアートのアルミ製ポータブル・イーゼル(伝道用)は$1000だった。シュルツさんの作ってくれたウッドケースで感謝していたのに、これまでも!このアルミ製イーゼルを、飛行機で日本に送ることにした。ということで、写真のアルミイーセルは、
この思いがけないプレゼント、日本語で伝えた6つのチョークアートは、この時もらったものです!
アルミイーゼル?!
2026年8月25日火曜日
ほんとにCだった
ボブジョーンズに帰ってからの2年間は、かなりぎっしり詰まっていたので、述べる順序は全然おかしくなってしまうかもしれません。
宣教地のことを考えながら(宣教師として帰る時に、何が必要かと思いながら)色々な科目を選びました。当時は未だ使われていたため、タイプライター技術など。資格教材・人間観文学・現代(当時の)倫理問題・もちろん、聖書の授業をいっぱい受けました。
記憶に残るのは、授業・テキストの内容ではありません。例えば:
一つの提出が間に合わなかった時、うそで言い訳しようとしました。寮に帰ると自分は心に落ちつきが全然なくて、提出物を済ませ翌日持って行った時、先生にうそを告白するしかありませんでした。「そうかもしれない、祈っていましたと、」先生に言われたとき、聖霊のとがめから離れられなかった理由が、この先生の祈りの答えだったことが分かったのです。(ちなみに、その提出物は正当理由無しで遅れて提出されたので、Fの成績を受けることになりました。)
でも私はAの成績より、Fををもらって心の平安があった方がいいと学びました。勿論、ベストは責任を最初から果たしてレポートを提出することです!
別の授業で、これの表れだったのか、私は宿題が間に合わず、とても遅れて、Forsythe先生に謝って手紙(今回はうその言い訳はしようとしませんでした。初めから送れたのは自分のせいだと認めました。)と一緒に恥ずかしく出しました。ねずみのように、授業後そっと逃げて行くつもりでした。ところが、授業中(みんな試験を受けていたのです)、先生は私の提出物に目を通してくれました。
Forsythe先生
終わりを告げるベルが鳴ると、先生に呼ばれました。提出されたものは、遅れているから、本当はFより高い成績は付けられないことになっているけれど、内容はいい、よく考えて時間をかけたと見えるということで、今回は例外にしてくれる、Cにすると言ってくれました。「ああ恵み!」
大学一年生のほとんどは、初めて家族から離れたティーンエージャー。ということで、一年生は先生の”Faculty Parents”(教務員両親?)が与えられ、ボブジョーンズにいる間、アットホーム雰囲気が味わえるように、時々はキャンパスから離れ、教師の家でピザ・パーティー、スパゲティデイナーや裏庭でバーベキュー、夕方はリラックスしたボードゲームをリビングでインジョイできるようにされていた。「~先生」の「子供」は、大抵2~3人いた。私はボブジョーンズに行った時、このように「いとこ」があと2人できた。(というより、親の子供だから、兄弟と言ったほうがいいのかな?
スポーツは、大学が最後だろうと思って、力いっぱい参加しました。
これをちょっと入れさせてもらいます:私の行ったパブリック・ハイスクールリーグの女性アスリート達は、審判にバレないようによく反則をしていました。ボブジョーンズではそれが全くなかったので、1年生として来たばかりの私は、変に聞こえるかもしれませんが、ここでは、負けても気持ちいいと思ったのを覚えています!
あ、さっきはバスケの話。これ、ソフト。後ろでバッティング練習しているのは私!
ソフトはかなりできるつもり。体育授業の時、フィールドリング練習する時に、クラスは2つに分けられ、教師は1つのグループを取り、もう1つを私がお願いされた。ところが、学期の終わり見ると成績はC だった。どう考えてもA.少なくてもB。でもC?何かの間違い。自分はうますぎる!だって、あの期末試験は、冗談のように、簡単だったし!
先生に電話することにした。ノートで隣の生徒の成績を間違えて私の欄に載せたに違いない。笑って、直してもらおう。
「ジューン。連絡がいつ来るかと思っていたの。」
自信満々の自分があの期末試験の記入の仕方がメチャクチャだった為、Fだった。
ガーン。本当だった。ゆっくり、見せてくれた。質問を読んで、何が求められて、返事を、どこにどう書くか明確になっていたにもかかわらず、私はさっと、最初に頭にきた、いちばん簡単なものをそのまま紙に書いた。答えは間違っていなかったけれど、場所が全然違っていたため要求されていたところには返答は何もなかった・・・
何度も見て、言葉が出なくなっていました。
先生が言ってくれました:「実力で、ジューンは、Aだけど、期末試験Fが成績の50%と決まっているから、Cにしかできませんでした。ジューン、本当にごめんなさいね。」
自分自身の能力・知性に自信をおくのでなく、クリスチャンは、いつでも遜って主と共に歩むことを身につけなければならない。祈ってこれを教えてくれるボブジョーンズの教務員たちを、ありがたく思います。
* * *
私が1年生として入学したとき(1977年)、姉のジョイスは3年生で、結構名前が知られていた。私は「ジョイスのいもうと」だったの。休学して帰ってくると妹のジャニスが4年生になっていて、彼女の名前が知られていた。そう、私は「ジャニスのおねさん」だったの。失敗しても大丈夫、姉妹の影に隠れるだけでOKだったと思う!
* * *
1981年の冬休みに、父はファーロのためにアメリカに帰っていたので、ボブジョーズまで来てくれました。ジョイスは卒業して沖縄のクリスチャンスクールで教師をしていましたけれど、ジャニスと私は、まだボブジョーンズにいました。父と一緒にフロリダ州に行き温かい冬を過ごすことにしました。(沖縄のように?)
クリスマス・イブの日に、父は、私たち2人の方に手紙をポイと投げ、「ホラ、いいもの上げる。読んでごらん。」と、言いました。漢字は読めない私たちは、日本語の手紙だったので、そうとう苦労しましたが、なんとなく、分かりました。
「島尻先生・・・ダディーと一緒に導かれ・・・沖縄の伝道を一緒にする」...結婚するということだったのです!
ワー!ダディー本当によかったネ!
私は1年前の経験で心の準備が既にされていました。「マミーが亡くなって、こんなに早く?」という、気持ちは少しもありませんでした。ダディーがマミーを愛していたことは信じて疑ったことはありません。マミーが亡くなってから、ダディーが、何となく「不完全な者、何かが足りない、」ように見えて、再婚の相手を祈っていたのです。それが島尻先生になるとは...自分にとって、もっといい相手は、考えられません。
ダディ-は、私たちの嬉しい姿を見て、ほっとしたと思います。その日から、以前のダディーの様に冗談を言ったり、歌ったりするようになりました。
母は、生きている時、私たち娘3人に言っていました。「私が亡くなってから、ダディーには助け相手が必要になるから、再婚したいなら、させてあげてね。」ダディーにも、島尻先生のことを考えたらどうですかと、言ったそうです。
父が再婚したとき、私たち3人は、ハワイのおばあちゃまに手紙をもらいました。「キヨさんを『おかあさん』と、よぶのよ。」と。母が亡くなったとき、おばあちゃんは父にこう言ったそうです:
「どちらかが召されるんだったら、君子でよかった。昇さん、あなたは沖縄の伝道を続けなければなりませんからね。」
「君子で良かった。」
おばあちゃまは、自分の娘の命より、沖縄での福音宣教を大切に思っていました。
すみません!
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