その夏、ジョイスはシカゴ市に住んでいるおじさん・おばさんの所に泊まることになっていて、私はボブジョーンズに行く前、シカゴに寄ることになっていました。
シカゴの空港に着いた時、迎えに来てくれたのは、ジョイスと彼女のうしろにボブジョーンズ学生が2人立っています。でも、どうして私はそれが分かったのでしょう。ジョイスからは何も聞いていなかったし、私が自然に探す人は、おじさんとおばさんだったのに。荷物を待って、ドアの方に行ったら、ジョイスが来て、やはり2人に紹介してくれました。
「ジューン、JanとEdは、ボブジョーンズで会った人。Janの所に泊まることになっているの。詳しい話は、車でね。」
Ed Alexander Jan Buiter
ジャンとエッドの...雰囲気でしょう。自然な笑顔と落ちつき。はっきり分かりませんけれど、ボブジョーンズの人だということが、何も言われなくても感じたのを覚えています。明るくて、親切で...いい人だなと、ふたりがすぐ好きになりました。
車の中でジョイスが話してくれました。
ジョイスのはっきり過ぎた証し方がシカゴのおじさん・おばさんを困らせたみたい。未信者の客に救いのことを質問された時、ジョイスは「相手の気持ちのことを考えず」福音をはっきり語ってしまって、根本主義の学校のやり方に違いない、と思われていた。クリスチャンは自然に生活のなかで神様を表すものだとジョイスは、叱られてた。おじさん・おばさんは教会で、そう教えられていたらしい。ジョイスは、別の教会に行くことにした。しばらくしたら、私たちに合わせるのが嫌だったら、どうぞ他に泊まる所を探して下さいと言われました。それで、Janは(前の年ジョイスのルームメイトだった)ご両親に相談して、ジョイスが彼女の家に泊まることになったのです。
そのときの気持ちのことは、話してくれませんでした。おじさん・おばさんについてジョイスが私に言ったのは、本当の聖書的教会のことは聞いていない、理解していない、いま行っている教会の教えを全部飲み込んでいると、いうことだけでした。
自分のことを笑うことができる、人の意見に傷つかない、(一旦倒れても、すぐ立ち直れる)「何も感じなかったのかな」と思うほど自分の歩みをそのまま続けることができる。この様なことを、ジョイスを見て学ぶことができました。
その後、おじさん、おばさんの所に行った時、本当に何もなかったように、ジョイスはみんなと一緒に笑ったりお話をしたりしました。おじさん・おばさんとの間を一生悪く感じてもしょうがないと、思っていたのかもしれません。おじさんとおばさんも、少しづつ私のことを完全に良く思ってくれて、数年後、サウスキャロライナ(南カロライナ州)まで、ジョイスの卒業式のために来てくれました。
そのときのおばさんの言葉をよく覚えています。「ここに来たら、本当の愛、本当の喜びを見ることが出来ますね。ボブジョーンズのような素晴らしい根本的大学は、とても感謝ですね。」おばさんの考えがここまで変えられたのは、他のクリスチャンが涙を飲んで笑顔で歩き続けたからだと思います。
シカゴの空港から家に着くまでちょっと時間が掛かったので、ジャンは「ジューンの証、聞かせてくれませんか。」と言いました。救いと献身、「失望の沼」と宣教への召し、大学への導きのことを話し、ジャンは全部、ゆっくり聞いてくれました。「その話を聞いて、ジューンはボブジョーンズをとても好きになると思う。」と言ってくれました。
家に着いたとき、ジャンのご両親は心を開いて私を自分の娘のように迎えてくれました。私はもちろん、2人をたちまち好きになりました。お母さんは、私のように美術に興味があり、きれいと思う絵は、ずっと眺めて楽しんでいました。そういうことをするのは、私だけじゃないんだと、思い、嬉しくなりました。
ジャンは、ピアノの才能がありました。家のピアノでいっぱい練習していました。お父さんは、毎週仕事から休みを取って教会の掃除の奉仕をしていました。その間、ジャンは教会のグランドピアノで練習していました。ある日、私は一緒に教会に行きました。お父さんの奉仕の賜物が用いられているのを見て、子供の為に何とすばらしい模範だろうと、思いました。(よく考えると、子供はみんなフルタイムに入りました!)
そして、ジャンのピアノの弾き方にも恵まれました。彼女の弾き方というのは、技術的に優れているだけではありませんでした。喜びで賛美の歌は明るく響く、堂々とした音、献身や悔い改めの曲は、瞑想的に流れる音と、気を付けて使い分けていました。音楽の証の力に感動したことを覚えています。
自分の指を見て思いました。1年以上ピアノレッスンを休んだこの手は、前のようにピアノを弾くことができません。4年前教わった曲でもやっと弾けるようなものでした。
「神様、この指は前のように動きません。」と上を向いて祈りました。そして、手を前に持ったまま、「勉強もまえより遅くなって、性格もまえより暗くなってしまいました。」と言いました。「あなたに献げるために、ふさわしいものは残っていません。」賜物を「沼」で失ったことを後悔し、泣きました。
「でも、すぐれたものは、何もなくても、私はここにいます。他には何もありません。けれど、神様、この私をーー私のすべてをーー献げます。どうぞ受け取ってください。」と、祈りました。献げものは認められた。こう感じたとき、重くなっていた心が、不思議な平安で、軽くなりました。
いま考えてみると、思います。神様の望み・目的・働きのこと。主が求めているのは、私たちの賜物でも性格でもありません。私たち自身を求めているのです。そうなるように、神様は時々試練を送って、邪魔になるものを一つ一つ取り除いてくれるのではないでしょうか。
夏が終わり、ジョイスと一緒にボブジョーンズに行くようになりました。やっとボブジョーンズに。
ボブジョーンズの駐車場で
私たちは数週間早かったのですが、自分の部屋にはルームメイトが既にいました。バイトの都合で早めに来ていたみたいです。
「時間はたっぷりあるから、ジューンの証、聞かせてもらえない?」ジャンのように、ゆっくり聞いてくれました。「その話聞いて、ジューンは絶対ボブジョーンズ好きになると、思う。」と言ってくれました。みんな、同じことを言うのかなと、思いました。「それに、
自分が一年生の時にいいアドバイス、ジューンにも伝えていい?ボブジョーンズで、Mission Prayer Bandというものがあって、世界宣教の為に毎晩祈るんだけど、それに参加る生徒たちと親しくするようにね。」ウインクしておわりでした。