2026年9月19日土曜日

すみません!

 「恵美の誕生日のブログ」に載せた写真は、私が産婦人科で彼女を抱っこしているもので、ランカスター夫人と一緒に郡山BCの前で撮ったのは、友人にメールした別なものでした!これです:

恵美、郡山BCの最初の日曜日!

もう30年以上になるし、特に2011年の震災で写真はほとんど無くなっている。この教会も建て直されているし、郡山バプテスト教会の宣教師・牧師だった田島信正先生は召されています。恵美が立っちして、一番初めての2歩を見守ってくれたのが、田島先生でした。


どーでもいいことをかなえてくれる神様

 普通にうめばよかったのに。

子供の出産のことを考えていました。2番目の子は(息子敬真)帝王切開でした。普段、初産は時間が掛かっても、その後はもっと早くなるはずです。こんどの妊娠中、定期健診では順調に見えたのですが、生まれる時になると、頭が大きすぎたみたいで、中々下がって来なくて、帝王切開で取り出すことになりました。

最初の子は(娘恵美)、予定日より早く、家で生まれてしまいました!主人が起きて動き回っていた朝でしたけれど、仕事に出かけていませんでした。産婦人科に「赤ちゃんが産まれてしまいました」と電話して、看護士が来るまで娘をタオルにくるんであげたのは主人です。神様を知らない人間は、「ご主人がいて、ラッキーだったね」と、言うかもしれません。見守りを感謝するしかありません。

息子の出産の入院のことは、あまり覚えていないし、思い出したくありません。帝王切開手術傷口が治るときは、なんというか、ハミガキチューブが下から絞られているような痛みがしました。(帝王切開は出産が痛みがないから楽でいいねと、知らない人は言うかもしれませんけれど、全くないわけではありません。)その時、ベテラン宣教師ランカスター先生夫人が優しく聞いてくれました。(恵美の誕生日ブログの写真の婦人)暖かい心をとてもありがたく思います。

娘の主産入院で覚えている一つのこと:なぜか、退院する前に、スパゲティが食べたくなった。産婦人科の食事は和食か養食と選べたけれど、大抵これは、ごはんかパンで、スパゲティはなかった。それに、出産したお母さんが退院する前日、彼女に出る夕食は赤飯と決まっていた。

春山産婦人科の看護婦・スタッフの人・入院している人には、自分の気持ちを言っていなかった。だけど退院する前のランチに出てきたのがスパゲティだった!

ちょっとしてから敬真を教会に連れて行った。私の妹ジャニスがアメリカから送ってくれた水色のベビーキャリーチェアーに座らせ、恵美と一緒に牧師館で写真を撮りました。これは、数年前それから描いたものです。

どうでもいい祈りを答え・心の願いを大切にしてくれる、この優しい神様が、ご自分の愛をフルに子供たちにも表してくれるようにと祈り続けるしかないのよね。

2026年9月15日火曜日

斎藤ネコちゃん

郡山市で私の子供2人を出産し育てました。布団生活しか知らない日本人には、添い寝は自然かもしれませんが、米国では、ベッドを使って、赤ちゃんはゆりかごやベビーベッドに寝かせたりして、添い寝の習慣は、ありません。

私は恵美と初めて添い寝をして、好きです。娘が言葉を覚え始めたとき、寝るまえ、このとき色々お喋りすることができて、具体的ことは覚えていませんが、あの時を思うと、なんだか嬉しくなります。

恵美は幼いときから、救いのことがはっきり理解していなくても真の神様の愛を感じて、もちろんみ~んな信じているよねと、思っていました。幼稚園の仲間のほとんど・先生たちもが違うということにガッカリして、ある週すごく悲しいことがありました。

日曜日はいつも教会に行っていたのですが、ある週、幼稚園で「まつり」があることになって、そのときに、折り紙で作った鬼が親に見せるため、展示されることになっていました。自分は行けないと泣いている恵美と一緒に、神様が特別慰めを送ってくれるように祈りました。

その数日後、祖母から電話があって、その日曜の晩泊まりに誘われました。祭りに行けなくても、お祖母ちゃんの所が絶対イイと、恵美は大喜び。

神様、ありがとう!別な用事で幼稚園に行ったとき、掲示板で、恵美の折り紙を見た。鬼ではなかった。形はみんなと同じだったけれど、クレヨンで描いた時、鬼の角を耳に変え、顔を・・・自分の好きなネコにした!あらら。

2026年9月7日月曜日

BISWAS先生たち、また来れるかな

去年11月バングラデッシュ宣教に行ったサアヤ姉が、4月に沖縄に帰ってきました。数カ月、ご主人とい一緒にデピュテーションをし、10月は出産があります;両方守られるように祈ってください。具志川バプテスト教会の皆はRana兄の証、バングラデッシュのことをも、もっと聞くことができたり、2人の奏楽賜物にも恵みまれいます。

「きょうだいしまい」というより「Biswas先生」と呼ぶべき。神学校卒業した宣教師だから(ご主人の方は、バングラデッシュで神学校を済ませ、フィリピンのセミナリーの勉強もした)。サアヤとRanaを区別するために「姉」と「兄」になっちゃったけれど。

5月にBiswas先生たちは天願の家にバングラデッシュから色々お土産を持って来てくれた。一番大きなものは、写真で全部見えないけれど、オレンジ・緑・黒・茶色の縞模様のステキな布。ちょうどいい大きさだったから、父の書斎のビデオモニターのテーブルを敷くことにした。

そして、バングラデッシュの地図・マグネットで御言葉カードを冷蔵庫に貼るのに使うことにした。最後に2枚のしおりは嬉しかった。前は栞はいっぱいあったけれど、なぜか最近なかったため、本に変な紙切れを挟んだりしていたから、スグこれらを使った。

7月に、また来てもらって、今度はゆっくり話をして2人の証を聞くことができたり、お土産の使い方も見せることができた。早くも9月になっちゃっている。また来てくれるかな。

2026年9月5日土曜日

逆さに咲いていた

思いがけずこのような結婚の祝福に導かれたことに感謝しましたが、日本語学校を卒業したばかりの私は、日本人の夫にとってふさわしいパートナー、支えになれるのだろうかと不安でした。

不安を抱えながら、夫の故郷である郡山市に引っ越してきた。家の近くには「三角公園」があり、その近くの木々の花は満開だった。ああ、その花の咲き方は、親友と東京の公園を散歩していた時に見た光景を思い出させた。

数ヶ月前、彼女はベビーカーを押していて、狭い小道を曲がるために少し頭を下げたとき、私に上を見るように言いました。正確な言葉は覚えていませんが、彼女は、神様が花を下向きに咲かせるようにしたのは、下を通る人のことを気遣ったからに違いない、なぜなら、下を通る人だけが上を見上げたときに花を見ることができるからだ、と言いました。

「三角公園」で、自分の拙い日本語を問題視するのではなく、むしろ特別な恵みをもたらしてくれるものだと気づいた。

実際、気づけば夫は私の日本語があまり上手ではなかったため、セールのチラシや子供たちの学校からの書類、郵便物に入っている様々な通知などを私と一緒に読んでくれていました。斎藤家が他の家族よりも強い絆を築けたのは、おそらくそういうことだったのでしょう。

最初は頭を下げなければならないような気がしたけれど、顔を上げると、花が咲き誇っていた!

「ご自分の御子さえ惜しまずに、わたしたちすべてのために与えてくださった方が、どうして御子とともにすべてのものをわたしたちに与えてくださらないでしょうか。」

(ローマ人への手紙 8:32)

2026年9月3日木曜日

東京バベルの塔 - おわり

2人沖縄に行くのでなく、だれか一人は東北無僕教会の援助に残りませんかという声が来た。一年間だけでいい、現在ファーロ中の宣教師が米国から帰って来るまででいいということだった。ジャニスは、日本語学校前から、沖縄でミニストリーを始めていた。沖縄宣教に召しを受けているだけでなく、既に1年も、それから離されていたようなだった。 

「誰か一人?」と、ジャニスは、はっきり言った。「私は沖縄に戻らなければならない。だれかが残るんだったら、ジューン、それはあなたになるのよ。」自分としては、神様の愛と救いの命のメッセージを伝えたい、それが沖縄であれ、東北であれ、…そのときは、数年前より結構薄くなっていたのに気がついた。 

ということで、ジャニスは沖縄に戻り、私は神学校卒業生(丹野容子姉)と一緒に毎週金曜電車で東北の教会に行って、家庭訪問・聖書研究等をして、日曜の夕方帰って来ていました。大変でしたけれど、霊的にすごく恵まれ、丹野姉と強い絆を結ぶことができたと思います。

また順序メチャクチャになっちゃいます:その丹野姉と一緒に、団地5階のアパートに住んでいました。そこに来たのが、神学校の教師にお願いされた、あの励ましのカードをくれた伊芸恵美子先生だったのです!そして・・・ちょっとしたら、宣教師先生から呼ばれました。近いうちに短期宣教師が2人来る、ジューンの所に住むことになっていた(伊芸先生は丹野姉妹と部屋は一緒、大部屋にマットレス2人分敷いたら全然間に合う)。 

妹がいなくなったら寂しくなると思ったけど、かえって急に交わりがにぎやかになる!皆が来るまえに、アパートを準備しなければならない。

欣也は、覚えていないと言うけれど、私は、ジャニスを沖縄に送ったあと、東京に戻ってきて、沖縄の暖かい気候・寒い東京の冬の気温差が急過ぎたのか、熱が出てしまった。おまけに風呂が故障した。もうろうとした気力の中、教会に連絡したと思う。スタッフの斎藤欣也兄が来て直してくれた。

 

このニコニコしている若い2人、だれ?

短期宣教師が来た時、あのアパートに住むことになったのは、日本語で話す2人(丹野姉・伊芸先生)、英語で喋る2人(短期宣教師)、と私1人でした。日本対アメリカの問題にならないように気を付けなさいと、宣教師に注意されたのを覚えていますけれど、その一年だったの:神様の不思議な導きで、欣也との結婚の結婚という祝福に恵まれたの。 

その結婚のことを色々考えたり、悩んだり、祈り合ってくれたりしたのは、あの「問題になりうる」数人だったのね。旧約聖書では人間が自分の力を誇って建てようとした塔だったけれど40年前は神様の力を祈りで一つになっていた人たちだったのね。だから結果が違ったと思う。 

母はバイブル・カンファレンスの時まで、斎藤欣也兄のことは、知らされていた。夕食を欣也と私、父と母で外食しに行った。 

「主の導きは不思議ですね。」と母は欣也兄に言った。自分も経験していたからであった。 

バイブル・カンファレンス特別賛美

そして、その忠実な導き:今までのこと、これからのことを、その後、特別賛美として、大城家は特別賛美をした。思った。自分は同じ忠実な神様、を賛美するけれど、「大城智子」じゃなくて、これからは「斎藤智子」として賛美を献げることになるのね。

*   *   *   *   *   *   *

ここまで読んでくれて、ありがとう。私が産まれたのは、1959年。岩佐めぐみさんにこれを渡したのは、30年間後の1989年だったの(その時はイラスト無し)。

沖縄生まれ、救い、クリスチャンスクール、献身、書き始める、聖句暗記、病気、「沼」、キャッシー、ボブジョーンズ、チョークアート、結婚。

さてと、続きはどう扱うことにしようかな。

郡山、出産、英語、健康、震災、教会、公園、動物、アート、葬儀、海外、引越、等々・・・それに、今すぐこれをすべきなのか、他のことに時間を割くべきなのか分かるように祈ってちょうだい。(私、書くのが好きだから疲れても、つい夢中になっちゃうの。)

2026年9月2日水曜日

婚約指輪みたい?

夏に、沖縄に帰ったとき、最初の日曜に、家族はLiving For Jesus(イエスのために我生きん)を特別賛美として証しました。

 初めてのプレアカード

①イエスのために我生きん・御旨の業励みて・仕えまつることこそ恵みうくる道なり

②我の罪を十字架で・我に変わり負い給う・かかる愛に答えて・全て献げ従わん

③いかになれど主のため・御名により業をなし・苦しみをも負うべき・十字架として忍ばん

(おりかえし) 救い主にこの身ささげん・あがないのため死に給いし

主こそ我が君我が王なり・いまよりひたすら主のため生きん

 

歌いながら、教会の愛する兄弟姉妹の顔を見て、心は感謝でいっぱい、目は涙で溢れそうになりました。家族一人一人を守り、導いてくれたことをありがとう、ありがとうと、何度も祈りました。 

高3の時に与えられた約束を思い出しました。 

「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:15 

父に与えられたみことばも: 

「あなたの将来には望みがある。ーー主の御告げ。--あなたの子らは自分のくに帰って来る。」(エレミヤ31:7)

沖縄に帰って最初の1カ月は、結構忙しかったです。アメリカから届く小包を整理し(これは、誰が送ってくれたか、覚えていますか?そう、しばらく彼女の家に住んでいた、Shirley Lampさんからでした。)ジャニスと私は急いで荷物を整理し、東京に行って日本語学校の勉強を9月から始めることになっていました。 

具志川バプテスト教会の夏季学校で教え、数日間は台風が沖縄に来ました。それと同時にもう一つ大きな「嵐」:教会で大きな問題が発生し、父と母はとても必要としていた休みをキャンセルして信者の家をぐるぐる訪問したり、電話をかけたりしていました。 

私たちもいつかは、こういうことをしているのねと、考えさせられました。やはり宣教師は、神様に選ばれた器であっても、ただの人間、教会員ひとりひとりの祈りと励ましの言葉が必要と、はっきり見えた。先生が一方的に群れを導くだけではない、羊一匹一匹が、聖霊の助けが、人間の羊飼いに与えられるように、ずっと祈って支えてあげなけれがならない。 

自分が日本語学校から帰って来るときまで、自分のために祈って支えてくれる教会員が育っているかなと、思うようになった。 

高3の証は覚えていた。今度帰って来た時は通訳者を通してでなく、自分で証したいと言った。私は小3の時、一晩で英語の続き字を覚えた。バカじゃないと頑張った。今度は、宣教師に日本語を教えてくれる所があるから大丈夫。神様、助けて下さいね、と祈った。 

ボブジョーンズを卒業した年、宣教団体に貰った証明書は、前の年に貰ったものと違うと気が付いた。今度は、自分の名前の下に「宣教師」と表示してあったし、トップの先生のサインがあった。その前の年は、それらがなかった。「入団約束カード」だったの?婚約指輪みたい?なんだか嬉しい。




準宣教師? 婚約指輪みたい?         大学卒業から正式宣教師! 

今度は本当の宣教師になっているから、宣教師の語学学校で勉強してもいいのね! 

父母はカナダ・ハワイで日本語学校で勉強したから、宣教地に出て来る前からキレイな日本語を使っていたけれど、ジョイス・ジャニス・と私は、光の子幼稚園以外、学校は英語だったので、漢字は、小1-2年生レベル以上のものは、ほとんど読めませんでした。大学にいたとき、沖縄のおじさんに証の手紙を出すため自分の新改訳を辞書として使っていたのを覚えています。 

前にも沖縄にいたとき、心の気持ちが日本語で伝えることが出来なくて、欲求不満を感じたのを覚えています。東京に言って、一生懸命勉強し、日本語をもっと自由につかえるようになりたいと決心しました。 

妹と一緒にされ、周りの人は、勿論同じだと思われました。ジャニスは1年先に沖縄に送られ、生活・言葉・習慣になれて、私は1カ月きたばかりでした。日本語学校では、その学期卒業する生徒2人と一緒にされました。1年間も日本語に聞きなれていたジャニスには問題ありません。でも、私は...とても大変でした。 

ジャニスは、家に帰って、宿題を15-30分でパッパッパッと済ませていました。私は、質問に答えるところか、質問の意味さえ理解するのに苦労しました。ジャニスは他のことをちょこちょこやって、部屋に帰って来ると、私はまだ宿題をしているのです。 

「ジューン、一体何してるの。完全主義者だからだめなのよ。あんまり細かいところまで考えるから。きれいな文を作ろうとしないで、正しい返事を出したらいいじゃない。」と言われてしまいました。 

完璧を求めていたというより、正しい言葉も頭に浮かばなかったのです。そういう時、おぼえているのは、励ましになった一枚のみことばカード。東京に出かける前、教会スタッフの伊芸恵美子先生から頂きました。日本語学びを祈りますということで、こんなに見るようになるとは思ってもみませんでした。神様、伊芸先生の励まし、ありがとう。


こんなに見ると思わなかった 

それで、JMLI宣教師は普通2年コースですが、ジャニスと私は1年で終了することができました。 

日本語学校が終ると、すぐ東北の子供キャンプの講師をお願いされました。ジャニスは小学科を教えて、私が中学科を取ることになりました。やはり、自分が教えたのは、ギデオンの話。(教え方は、色々あります。毎回同じレッスンを教えているわけじゃないです!実をいうと、自分が一番好きなのは、自分が大学生の時に旧約聖書の授業で聞かされた説明です。いつか、それを分かちあいたいと思うのですが、子供の教え方ではないので使うことはないと思います。) 

Japan Missionary Language Institute(日本宣教師外国語学園)終了

ギデオンの話は、めぐみバプテスト教会の「ロバの子会」でも1カ月教えたと、ノートに書いてありますが、全然覚えていません。覚えているのは2つ。1)三田紘一先生にビデオをお願いされたとき、最初は、怖くて「できない」と断っていました。だけど、ジャニスがこう感じました:神様の仕事をするために勉強をした。だったら、できないと、言うのは、おかしいんじゃない、と言ってくれました。2)チョークアート。雄弁家でなくても、言葉でなく絵でコミュニケートする。デピュテーションのために、英語で少なくても6回して、今度は日本語で6回したから。

2026年9月1日火曜日

行くつもりはなかった、神様のアポイントメントだった

3年目の終わり頃、ジョイスのサポートは95%、私のサポートは80%近くありました。それで、直接デピュテーション集会から手をはずし、一カ月は、宣教師伝道コースのためにインディアナ州にある教会に行きました。

そこでは、一カ月、特別準備されている家に泊まり、午前中は授業、午後は訪問となっていました。朝は、主にその原則を説明したりするためのもの、実際練習するためのものでした。証というものは学問的ものでなく、クリスチャン一人一人が実際やりながら分かってくるものだと思います。授業では、もちろん、実用的案も出ましたけれど。 

御言葉のメッセージを心にたくわえ、証する時は、相手と聖霊との対話だということを心にとめておく。この2つの原則がいちばん為になったと思います。 

コースはちょうど2月だったので、雪で訪問に行けない日がいっぱいありました。実際話が出来たのは、7人ぐらい。でも最後の日にRick Christianという大学生を救いに導くことができました!

行くつもりはなかった 

本当はこの人を訪問しようと考えていたのではなく、他の所がダメになったので、そこにある一軒に行ってみようかなと、思い、Rickの家に行ったのです。そして、Rickの心の備えられているのにビックリしました。Rickのお父さんは牧師だったので、教会で育っていたので、ある程度聖書のはなしには慣れていましたけれど、十字架の意味を聞くのは初めてだったのです。この素晴らしい話を伝えることができたのを特権だと思います。 

聖霊の導きに従うことの大切さを学ばされました。ジョイスと私は次の日、ミシガン州に帰ったので、Rickのファローアップ・信仰成長のことを聞くことはできませんでした。

デピュテーションは、この宣教しよう個人伝道コースで終わりました。宣教地に出ていく前に、失われた魂に神様の愛と命のメッセージを届けるということに焦点を当てることができて、とても良かったと思います。

(デピュテーションから宣教師にバトンタッチしているイラストを祈りの手紙に載せました。)

今日はこれに変わった、(2011年のことだけど)

 実は、全く別なことをブログするつもりだったけれど、今朝のメッセージの結果、これを載せることにした。英語のブログで、黙示録シリーズをしている。。。その説明は、しない。とにかく、今朝の話は、私たちが具体的に祈る時、神様が答えてくれることがあった。この2011年ことを思い出して、英語...