ボブジョーンズに帰ってからの2年間は、かなりぎっしり詰まっていたので、述べる順序は全然おかしくなってしまうかもしれません。
宣教地のことを考えながら(宣教師として帰る時に、何が必要かと思いながら)色々な科目を選びました。当時は未だ使われていたため、タイプライター技術など。資格教材・人間観文学・現代(当時の)倫理問題・もちろん、聖書の授業をいっぱい受けました。
記憶に残るのは、授業・テキストの内容ではありません。例えば:
一つの提出が間に合わなかった時、うそで言い訳しようとしました。寮に帰ると自分は心に落ちつきが全然なくて、提出物を済ませ翌日持って行った時、先生にうそを告白するしかありませんでした。「そうかもしれない、祈っていましたと、」先生に言われたとき、聖霊のとがめから離れられなかった理由が、この先生の祈りの答えだったことが分かったのです。(ちなみに、その提出物は正当理由無しで遅れて提出されたので、Fの成績を受けることになりました。)
でも私はAの成績より、Fををもらって心の平安があった方がいいと学びました。勿論、ベストは責任を最初から果たしてレポートを提出することです!
別の授業で、これの表れだったのか、私は宿題が間に合わず、とても遅れて、Forsythe先生に謝って手紙(今回はうその言い訳はしようとしませんでした。初めから送れたのは自分のせいだと認めました。)と一緒に恥ずかしく出しました。ねずみのように、授業後そっと逃げて行くつもりでした。ところが、授業中(みんな試験を受けていたのです)、先生は私の提出物に目を通してくれました。
Forsythe先生
終わりを告げるベルが鳴ると、先生に呼ばれました。提出されたものは、遅れているから、本当はFより高い成績は付けられないことになっているけれど、内容はいい、よく考えて時間をかけたと見えるということで、今回は例外にしてくれる、Cにすると言ってくれました。「ああ恵み!」
大学一年生のほとんどは、初めて家族から離れたティーンエージャー。ということで、一年生は先生の”Faculty Parents”(教務員両親?)が与えられ、ボブジョーンズにいる間、アットホーム雰囲気が味わえるように、時々はキャンパスから離れ、教師の家でピザ・パーティー、スパゲティデイナーや裏庭でバーベキュー、夕方はリラックスしたボードゲームをリビングでインジョイできるようにされていた。「~先生」の「子供」は、大抵2~3人いた。私はボブジョーンズに行った時、このように「いとこ」があと2人できた。(というより、親の子供だから、兄弟と言ったほうがいいのかな?
スポーツは、大学が最後だろうと思って、力いっぱい参加しました。
これをちょっと入れさせてもらいます:私の行ったパブリック・ハイスクールリーグの女性アスリート達は、審判にバレないようによく反則をしていました。ボブジョーンズではそれが全くなかったので、1年生として来たばかりの私は、変に聞こえるかもしれませんが、ここでは、負けても気持ちいいと思ったのを覚えています!
あ、さっきはバスケの話。これ、ソフト。後ろでバッティング練習しているのは私!
ソフトはかなりできるつもり。体育授業の時、フィールドリング練習する時に、クラスは2つに分けられ、教師は1つのグループを取り、もう1つを私がお願いされた。ところが、学期の終わり見ると成績はC だった。どう考えてもA.少なくてもB。でもC?何かの間違い。自分はうますぎる!だって、あの期末試験は、冗談のように、簡単だったし!
先生に電話することにした。ノートで隣の生徒の成績を間違えて私の欄に載せたに違いない。笑って、直してもらおう。
「ジューン。連絡がいつ来るかと思っていたの。」
自信満々の自分があの期末試験の記入の仕方がメチャクチャだった為、Fだった。
ガーン。本当だった。ゆっくり、見せてくれた。質問を読んで、何が求められて、返事を、どこにどう書くか明確になっていたにもかかわらず、私はさっと、最初に頭にきた、いちばん簡単なものをそのまま紙に書いた。答えは間違っていなかったけれど、場所が全然違っていたため要求されていたところには返答は何もなかった・・・
何度も見て、言葉が出なくなっていました。
先生が言ってくれました:「実力で、ジューンは、Aだけど、期末試験Fが成績の50%と決まっているから、Cにしかできませんでした。ジューン、本当にごめんなさいね。」
自分自身の能力・知性に自信をおくのでなく、クリスチャンは、いつでも遜って主と共に歩むことを身につけなければならない。祈ってこれを教えてくれるボブジョーンズの教務員たちを、ありがたく思います。
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私が1年生として入学したとき(1977年)、姉のジョイスは3年生で、結構名前が知られていた。私は「ジョイスのいもうと」だったの。休学して帰ってくると妹のジャニスが4年生になっていて、彼女の名前が知られていた。そう、私は「ジャニスのおねさん」だったの。失敗しても大丈夫、姉妹の影に隠れるだけでOKだったと思う!
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1981年の冬休みに、父はファーロのためにアメリカに帰っていたので、ボブジョーズまで来てくれました。ジョイスは卒業して沖縄のクリスチャンスクールで教師をしていましたけれど、ジャニスと私は、まだボブジョーンズにいました。父と一緒にフロリダ州に行き温かい冬を過ごすことにしました。(沖縄のように?)
クリスマス・イブの日に、父は、私たち2人の方に手紙をポイと投げ、「ホラ、いいもの上げる。読んでごらん。」と、言いました。漢字は読めない私たちは、日本語の手紙だったので、そうとう苦労しましたが、なんとなく、分かりました。
「島尻先生・・・ダディーと一緒に導かれ・・・沖縄の伝道を一緒にする」...結婚するということだったのです!
ワー!ダディー本当によかったネ!
私は1年前の経験で心の準備が既にされていました。「マミーが亡くなって、こんなに早く?」という、気持ちは少しもありませんでした。ダディーがマミーを愛していたことは信じて疑ったことはありません。マミーが亡くなってから、ダディーが、何となく「不完全な者、何かが足りない、」ように見えて、再婚の相手を祈っていたのです。それが島尻先生になるとは...自分にとって、もっといい相手は、考えられません。
ダディ-は、私たちの嬉しい姿を見て、ほっとしたと思います。その日から、以前のダディーの様に冗談を言ったり、歌ったりするようになりました。
母は、生きている時、私たち娘3人に言っていました。「私が亡くなってから、ダディーには助け相手が必要になるから、再婚したいなら、させてあげてね。」ダディーにも、島尻先生のことを考えたらどうですかと、言ったそうです。
父が再婚したとき、私たち3人は、ハワイのおばあちゃまに手紙をもらいました。「キヨさんを『おかあさん』と、よぶのよ。」と。母が亡くなったとき、おばあちゃんは父にこう言ったそうです:
「どちらかが召されるんだったら、君子でよかった。昇さん、あなたは沖縄の伝道を続けなければなりませんからね。」
「君子で良かった。」
おばあちゃまは、自分の娘の命より、沖縄での福音宣教を大切に思っていました。