2026年6月30日火曜日

お絵描きが好きだったけれど・・・

あの大謝名の家の長~い廊下に、掲示板があって、宣教師からの手紙や祈りのカードが展示されるていた。Reasoner先生達、Waala先生たち... ダディーが説教準備のために使っていたメモカードが床に落ちていたから、自分は拾って、裏に絵を描いたけど、それが見つかって展示されたの!そのあと、私たちの祈りの手紙の説明の絵をよくお願いされて、スゴク嬉しかった。

ところが、ある日、ハシゴをのぼっているゾウの絵を描いてくれないかと、母にお願いされた。母は急いでいる様子だったから、すぐ描き始めた。外は風の音が強くなっている。早くダディーが帰って来ないと困ると、思っている自分の顔を見て、母はいった:


「そう。ダディーまだなの。台風の準備、マミー一人でしなければならないかも、心細い。」

「え?」と、その時気が付いた。自分が描いていたのは、母だった?

2026年6月29日月曜日

わざとまいご

今度沖縄に帰ったとき、父はもっとゆっくり、ゆっくり、マイペースで動くようになりました。いっぱい動いて、すぐダメになるよりは、少しづつ、長く主に仕えたいということだったのです。

あとで分かったことですけれど...正しく休むためには、時勢が必要だと。勉強・伝道・奉仕だけでは、体がもたない、と。父は昼寝をしたり、ドライブに行ったりすることが多くなりました。いつも頭が痛くて肩がこっているのは、良くない。リラックスするのも必である、と父は考えるようになりました。問題の重荷を全部自分で抱えようとするのも精神的によくないと、教会の色々な責任を他の人に任せたり、ストレスを張りはらうように楽しいことにも精一杯インジョイするようになりました。(教会の奉仕は、神様に「残して」。)

ファミリードライブに出かける

月曜日は、ファミリーデーと決まっていました。教会行事から離れ、家族で色々楽しみました。でも、教会から離れたとは言っても、時々は買い物をするとき、ついでに近くの病院の訪問をしたり、北の方にドライブに行くときは、親戚の家にも寄ってみたりしました。「家族伝道」になったとも言えます。こういうことを少しも嫌に思いませんでした。大人の宣教師だけだったら相手にしてくれなくても、子供が一緒にいる場合は心を開いてくれることもありました。自分があきなかったファミリードライブは、こういうものでした:

皆車にのって、島の北の方に向かいました。かなり北の方まで行くと、わざと知らない道をとりました。それを少し行くと、右に曲がったり、左に行ったりして、どこにいるか、さっぱり分からなくなるまで行きました。そして、道を歩いている人に、近くの町までの道案内を尋ねました。そレに従って町にでると、また別の知らない道をとって、わざと「迷子」になりました。道のそばを歩いている人にまた道案内を聞いて、昼になるまでこれを数回繰り返しました。

おなかが空いてくると、影がある所を見つけ、皆車から降りて、お弁当を取り出して、ピクニックにしました。私は景色委を眺めるのが好きだったので、海岸の方をドライブしているとき、一人でじっと窓のそとを見ていました。ジョイスとジャニスは2人でお喋り。帰りは、皆疲れていたので、運転している父以外は、車の中でずっと寝ていました。

ダディー、本当にお疲れさま。

2026年6月28日日曜日

うれしかった

 (下の写真:ジョイスと幼稚園のチェリー先生)

当時早期教育のことはあまり知られていなかったけれど、姉の幼稚園先生Cherry先生は、ジョイスに本を読むことを勧めて、姉は1年を1学期で済ませ、後期は2年生に進級させられた。ということで、姉は自分より1歳年上だが、学年は2つ上。

ということで、自分は3年生で、姉は5年生だった。

バカじゃない

アメリカ本土のワシントン小学校に入学したとき、一学年下のクラスに入れられました。海外の学校から来る子供は、皆そうすることになっていたのです。できる子は、元の学年に戻ることになっていました。

それにお喋り屋さんだったので、初日から先生はすぐ分かったみたいです。この子を長くこの4年生クラスに置いたら、退屈で勉強する気をなくすだけ。2日目からジョイスはもとの学年に上がっていました。ジャニスの先生は、数日間様子を見て、次の学年に上げました。私は一週間しても同じクラスだったので、心配し始めました。

「私、いちばんバカなのよね。」と母に言いました。「ジョイスとジャニスは、自分の学年に戻ったけど、私はダメだったの。」仕方ない、泣きたい気持ちでした。

母は早速学校に行って校長先生に相談しました。

「ジューンだけができないことはありません。」と校長が言いました。「おとなしくて、忘れられていただけです。本当にすみません。」翌日、自分も元の学年になっていました。

よかった。あたまがいちばん悪いということではなかったんだ。

私がクラスに入る前、他の学年全員は、cursive(続け字)の書き方を習ったので、私はそれを一人家で勉強しなきゃならないと先生にいわれました。バカじゃない。私にはできる、と思って、その晩、いっしょうけんめい勉強しました。

次の日、続き字で書いたオリジナルの話2つを先生に提出しました。これから、他の生徒と同じようにできます、と。母にも先生にもよく頑張ったと、ほめられました。

後期にミシガン州の「若者著者コンテスト」があって、一人一人本をつくることになっています。私はネコの話を書き、イラストも自分で描きました。ジョイスは小人の話、ジャニスは赤ちゃんの話。3人とも自分の学年から選ばれ、私は学校を代表することになりました。

市の代表者は、近くの体育館で集まり、ミシガン州大学にチャーターバスで行きました。そこで、小さな部屋で他の学生10人と教師の前で自分の作品を読みました。ミシガン州代表に選ばれたのは、動物物語集を書いた中学2年生。私は学校を代表することができただけで嬉しく思いました。

でも、その年の一番嬉しいできごとは、このコンテストではなく、小学校の休み時間で起こったことです。私は、友だちを数人集めて、神様の話をいっぱい聞かせていました。沖縄のクリスチャン・スクールとは違って、ここには、救われていない子供がいっぱいいるだろうと思ったからです。

神の愛を話しながら、他の子供を怒ったりしていた自分のことを思い出すと笑うしかありません。でも、人間は、ただの器。聖霊ご自身が働いて、人の心に真理を生かせるのですね。というのは、ある休み時間、遊び始めたら、Bonnieという女の子が私の所に来て涙を押さえながら言いました。「ねえ、ジューン。私、イエス様信じたい。」

「本当に?心からそう思うの?」実はきく必要はありませんでした。Bonnieの顔を見るだけで本気だということが分かったのに、あまりもはっきりしていたので、私がびっくりしていただけです。

「心から。」2人、その運動場でしゃがみ、一緒に祈りました。私の最初の魂をイエス様の救いに導くことができたのです。ハレルヤ。その日家に帰ったら嬉しくて、そのことを最初に母に話しました。

次の日曜日の礼拝の終わりの招きのとき、前に出ました。イエス様のために、もっと熱心に救霊したいと。子供の決心と軽んじてはいけません。神は子供一人一人の心の願いを聞き、単純な信仰でささげられた祈りを、はっきりしたちからで答えてくれるからです。

その日曜日もう一つ覚えていることは、献金のとき、私の心は、Bonnieのことで感謝でいっぱいになっていたので、カゴがまわってきたとき、自分の持っていたたった一枚の1ドル札を入れてしまいました。神様、ありがとう。

父は、少しづつ元気を取り戻しました。1年半のファーロが終わって、沖縄に帰るときまでは、自分でスライドを見せたり、説教したり、前のように冗談を言ったりしていました。

2026年6月27日土曜日

マイケルとデビー

母の家族は8人家族なので、ハワイには従妹が大勢います。私とおなじ年の従妹が2人。男の子Mike(マイケル)と女の子Debbie(デビー)。

おじさんたちの中でいちばん好きなのは、Mikeのお父さんでした。優しくて、強くて、男らしくて、ハンサムで、ステキな紳士(Gentleman)タイプでした。Mikeもお父さんの言うことをよく聴いていました。女の子の私たちにとても優しくしてくれました。まだ救われていなかったことが一つだけ残念でした。

私はMikeが好きになりました。私立学校の勉強は大変だったのですが、お父さんにいつも励まされて、頑張っていました。私たち3人が遊びに行った時も、Mikeは学校から帰って来ると部屋に行き、ドアを閉めて、宿題を済ませるまで出てきませんでした。

「ゴメンネ。勉強が終わるまで、待っててネ。」そして、部屋から出てくると、いっぱい遊びました。Mikeは、アドベンチャーが好きで、一緒に遊ぶことがとても楽しかったのを覚えています。自分は小さいころから、おままごとみたいな、おとなしい、女らしい遊び方は、あまり好きではありませんでした。Mikeと一緒にジャングル冒険やキャッチボールをするのが面白いと思いました。

Mikeのお父さんも、それをおかしく思わなかったので、私はおじさんが、ますます好きになりました。だって、そこのおばさんも、私みたいな、おてんばタイプだったのです。子供の頃は、近所の男の子たちとフットボールをして、お兄さんに見つかったらいつも叱られていたそうです。女のこたちといっしょに遊べと。

Debbieも同じでした。私のようにスポーツが大好きで、いっぱい動き回る遊びが好きでした。(庭で2人で柔道をしたことを覚えています!)Mike、Debbie、と私3人が一緒になると、とても楽しく遊びました。(Mikeの結婚相手もDebbieという人でした!)Debbieは、私の様に、ピアノを弾くようになり、学校では、とても明るい、友だちのいっぱいいる人でした。

霊的話をDebbieとすることがありました(彼女はクリスチャン)。一つおぼえているのは、病院でまだイエス様を信じていない子供のことを考え、その子供達のために、2人でカードを一杯作ったことです。カードのなかには、聖句を書いたり、救いの道を紹介したりしました。当時の私たちは、まだ小学2年生だったので、決してきれいなカードでなかったと思いますが・・・病院の子供達の救いの為だと思い、デビーと一緒に一生懸命作りました。ハワイを主発する前の晩だったので、そのカードは、どうなったかは、わかりません。

Debbieのお父さんは、とても成功したビジネスマン。島で尊敬されていました。おばさんと結婚するまで教会の青年会にいつも参加していたのですけれど、その後は、行かないようになりました。おばさんは、毎日曜一人で子供3人を教会に連れて行っていました。とてもキレイな声で聖歌隊で歌って、時々は特別賛美をしていました。

仕事のために、おじさんが沖縄に来たとき、私たち3人にプレゼントを買ってくれました。ジョイスにはサンゴのブローチ、ジャニスには体の柔らかい人形。私にはソフトボール2個とバット21本(自分の娘が何を欲しがることをを考えて選んでくれたのでしょう。)

これから、このおじさんが一番好きでしょうのようなことが言われた時に、はっきり思ったのが覚えている:「え?プレゼントもらったからって、関係ない。このおじさん、一番お金あるだけ。前を全く同じに好き、変わらない。」

2026年6月26日金曜日

父の神経衰弱

そのとき、沖縄の伝道というのは、4つの教会が与えられていました。宇堅、首里、石川、石垣。月の1週目は首里の教会で説教を、1週・3週目の午後は石川と宇堅の村の教会に行っていました。父は4週目に離島の八重山にある石垣の教会に回っていました。このように忙しくしていました。

父はカナダの気候に慣れていたので、沖縄の湿度でこの様にうごきまわるのに大変疲れました。(宣教師は、多くの場合、別の環境に慣れているので、国の人より他の必要があります。自分で変わろうと思っても、変わらないものがあります。)このペースで続けたら体をこわしてしまうと母は心配していました。

でも、父は、スポーツマンのファイトをしっかり握って、少しも休もうとしませんでした。必要以上、どんどん働く積極的な人だったのです。毎年、夏負けして痩せる一方でした。4つの教会の責任をとって、精神的ストレスにも、相当やられていました。何もかも自分でする父は、他の宣教師にこう言われたそうです:

「神様にも仕事を少し残したらどうですか」と。

どれほどつかれているか、本人も分からなかったみたいです。母にそう見えても、父は「大丈夫、大丈夫」と、言うのです。

ある日、父が運転しているとき、道路の中央の分離帯が2つに分かれるように見えたので、車を道の側に止めました。これは、やはりおかしい。疲れているんだ。そう思って、医者に診てもらうことにしました。

病院では言われました。「すぐ休暇をとって、アメリカに帰りなさい。これ以上無理したら、一生健康は元に戻りませんよ。」

荷造りと旅行の準備は母がほとんど全部一人でし、一カ月以内で、アメリカに帰りました。学年の数カ月は、まだ残っていたのです。

ハワイでゆっくりして、私たち3人は、そこで最後の学期の勉強を済ませることになりました。まだ小さかったので、父が体をこわしたため、すぐ休暇をとったということは、分かりません。このように急に学校を変えても、簡単に調節させてくれた特別な守り・恵みを不思議に思い感謝するしかありません。

2026年6月25日木曜日

いつもそばにいたダディー

ジャニスは、父に似たのかな。父もとてもしっかりして、感情を表す人ではありません。でも、やさしいところにビックリさせられることもありました。

子供のときにいちばん好きだったジャンパーを、まだ覚えています。赤くて、暖かくて、ニットウエアのえりとそで口があって、ドナルドダックのワッペンが胸についていました。3人揃ってその赤いジャンパーを着て買い物に出かけていた時のことです。

ジャニスがいたずらでひょいと足を出したのです。私の手はポケットに入っていたので、地面に倒れるのを腕でとめることが出来ませんでした。横隔膜を強く打ったのでしょう。起き上がる時、息が出来なかったのです。

「ジューン、ごめんね。だいじょうぶ?}

ジャニスの質問に答えることができませんでした。

「ジューン、大丈夫?」と、ダデイーに聞かれました。

「息...が...できな...」意識をうしないました。気がつくと、ウ~とうなづいて、足で地面をじだんだ踏み、ひじでダディーに支えられているのです。あ...れ。

息を取り戻すための、体の自動的反応だったのでしょう。

その時、父がそばにいたことを、ありがたく感じました。

別の日、外で遊んでいる時、家に入ってきて横にならなければならない程、急に頭がいたくなりました。こんなに痛くなるのは、生まれて初めてと、思いました。何とか痛みを消そうと頭に枕を当てました...けれど、どうにもなりません。

「ジューン、どうしたの。」と、父が部屋に入ってきました。

「あたまが...いたい。」

熱をはかって、解熱ざいをくれたと思いますけれど、全然楽になりません。一時的に精神が錯乱したようになりました。頭をまくらの上にたたき、呻き、涙を流していました。はっきり覚えていません。

父は私のそばに座り、「シー。しずかに。しずかにしなさい。ジューン、目を閉じて寝なさい...」と言われたことは、覚えています。親の言うことに従うという自動的反応で、私は泣くのをやめて、目を閉じて、眠りました。父の手を握ったまま。

起きた時は、熱が下がっていました。

いちばん痛い時に、そばを離れなかったダディーをスゴクありがたく思いました。

いつか、心が「いちばんいたい」ときに、このことを思い出して、人間の父親でさえできることだったら、...天のお父様は自分から絶対離れないと安心できるのね。

2026年6月24日水曜日

泣かなかったジャニス

6月20日が妹の誕生日でした。順番はずれだけど、この記事を誕生日に載せちゃおうかなと、思いました。思いとどまったのは、あと一つのこと:日曜日は父の日。欣也のこと特別にしたかったから、そうしたら、ジャニスの記事は、いま投稿しても、すぐ忘れられる。いや、やっぱり順番どおり来週にしよう。ということで、今日になりました。

妹ジャニス愛子の、待ちに待った記事で~す:たっぷりインジョイしてくださいね!

~ * ~ *  * 

ある日、学校が終わって、家に帰る時間になると、ジャニスと友だち一人が学校の門の方に来ました。友だちはとても心配そうな顔をして、妹は何も言っていません。

「どうしたの。」と聞いても何も言いません。シーソーから落ちたと、友だちは言います。でもジャニスは口を開きません。そのように家に帰りました。

家に帰ったら、父と母に「ジャニスはシーソーから落ちて、何も言わないの。」と説明しました。

「どうしたの。大丈夫?」

ジャニスは話始めました。口を開けたと思ったら、目から涙がこぼれ出ています。学校が終わってからなにの返事もしなかったのは、そのためだったみたい。声を出したら泣いてしまうと恐れていたから。相当いたかったのでっしょう。ジャニスは私の正反対。泣くことは、ほとんどない。でも、こんなにいっぱい泣いているのです。私も心配になりました。ジャニスのブラウスのえりの下を見ると、肌が突き出ています。

父はそれを見て、「これは、骨が折れている。」と言いました。病院に連れて行くことになりました。シーソーから落ちた時、鎖骨を折ってしまったのです。「時間はどのくらいかかるか分からないから、ジョイスとジューンは家で待ってて。」

どんなに待っても、帰ってこないように感じました。ジャニス、手術しなければならないのかな。ジャニス、とっても痛いだろう。ジャニス、絶対死なないよネ。「神様、ジャニスを助けて下さい!」と自分が祈っているのに気が付きました。

帰って来た!私はドアに走って行きました。

ジャニスはニコニコして、フットボール選手の様に肩が大きくなっています。

ジューンとジャニス

「ジャニス、とっても強かったよ。えらかった。」とダディーが言います。

マミーが説明しました。ギブスを作るために熱いプラスターで型を作らなければなりませんでした。それを肌に当てる前に骨を正しいかたちに引っ張らなければならないので、痛くなると言われていたのです。痛み止めの注射はあったのですが、ジャニスは、泣かないから注射なしでしてくださいと頑張ったみたい。やってみようということになりました。

ジャニスはグッと歯を食いしばり、目からは涙が流れ出ても口からは何の音は出なかったのです。

お医者さんは感心してこう言ったそうです:「骨折・ギブスの場合、普通は痛み止めの薬をを少し出すのですけれど、この娘さんは必要なさそうです。薬なしで早く治らせる方がいいでしょう。」

ギブスのために、一回り大きいサイズのブラウスを数枚買って、それを数年後も着ることができました。

意志の強いジャニス。泣くのをきらうジャニス。私のかわいい妹ジャニス。このとき、どんなにかわいく思っていたかが分かってきました。

2026年6月23日火曜日

女性たちの裏戦闘

日本へ宣教師として召された先生たちは教会を始めようと熱心に働いていましたが、その先生たちを裏で支えていたのが、奥さんたちでした。ご主人の宣教の仕事の一部として、宣教師の子供たちの霊的成長を見守って養ってくれました。

まだ7歳のときに、スタイルズ宣教師夫人の家である聖書クラブに行っていました。来る子供はみんなあめ玉をもらったので、聖書の話のためでなくて、お菓子のために行く子もいたでしょう。私は毎回聞ける子供ラジオ話が好きだったことを覚えています。

ある時のレッスンは、エペソ6章からとられていました:(神の武具)。おわりの招きの時にスタイルズ夫人はこう言いました:「だれか、クリスチャンの中で、話で聞いたように、ただ救われているだけでなく、主のために強い兵士になりたいと思う人はいませんか。」

私はそれを心から願っていました。7歳の私に理解できました。救われて天国に行くだけでは足りない。主のために全てを尽くして生きていきたい、と。私はその時手を上げました。家に帰るときになると、決心した子供は残って祈ることになっていたので、私は残ると姉と妹に言いました。

また聖霊の働きです。真剣に心から献身したことを覚えています。子供にもできることです。神様、これから私があなたをもっと喜ばすことができるように助けて下さいと心から簡単に祈りました。

そして神様は、その祈りを聞き、答え始めてくれたのではないかと思います。 

2026年6月22日月曜日

あれはもしかして...天使?

小1の時、自分は初めてひとりでバスに乗りました。それが、運賃用金が見つからなかったので払えないと思い、自分は終点まで行ってしまいましたワンマンシステムになっていなかった1965年の話なので、そこで迷子になって泣いている自分を見つけたバス女性乗客員に助けられて、家に帰ることができました。

家に帰ると、家族は私のことを心配してくれていたので、終点まで行って帰って来たことを話した時、きかれました。

「いっぱい泣いたでしょう。」

「泣いた?なんで泣くの?」と答えてしまいました。あっ。いまの、うそ。と、自分は分かりました。

「へえー。えらいね。そんな大変なことがあっても泣かないなんて。」

でも、私は自分のことをえらいと思えませんでした。泣かなかったことが本当でなかったということだけでなく、私がそのことについて嘘をついたということを知っていたからです。

聖霊がクリスチャンの心の中に宿っているかぎり、罪は決して面白いものではありません。どんなに小さな罪でも。私は、数年後、この嘘の罪の重荷を心の奥底に閉じ込めようとしました。

けれど、その罪に攻められて、あるキャンプのとき、集会がとっくに終わっていたのに、私は席から動けませんでした。母が私を見て、「ジューン、どうしたの。」と尋ねました。

「うん。あのね、私...祈って告白したいものがあるの。」

メッセンジャーと一緒に祈ることにしました。私は神様に、また家族に、嘘の罪を告白し赦してもらいました。心がなんとかるくなったことでしょう!赦し、自由、喜び...涙が与えられました。

小さいことでしょうか。そう思われるかもしれません。でも、これを通して大きい大きいことを学びました。罪は決して好むものではないということ。また、罪に対して心をかたくなにするとき、「心の損害」を経験するということ。罪を告白することによって、全き平安と喜びを取り戻すことができるということ。Iヨハネ1・9の真実。クリスチャンとしての歩みの中で色々な問題・祝福を経験していますけれど、心の根本的動きは、あまり変わらないと思います。かたちだけがかわるのだと思います。

一生ためになる原則を早くから教えてくださった神様を感謝します。

2026年6月21日日曜日

父の日のプレゼント (英語から一度アプリで訳)

 今日は父の日。凝った詩や高価な贈り物を思い浮かべる人もいるだろう。

欣也自分は息を呑んで首を振り、ただただ「創造主である神は素晴らしい」としか言いようがない。良いものを生み出すのには、初めから作り上げるより既に存在するものを改良した方がずっと簡単です。食品会社はそれを「新しくされた」商品をだし、グリーティングカードは「一緒にいるような」と呼び、改装された施設は「改装前」と「改装後」を比較します。しかし、神だけが、他に類を見ないほど独創的でありながら、神が望む通りのニーズを満たす人間を創造できるのです。最初から。

特に昨年私が転倒して以来、主人は私のニーズにすぐ応えてくれるようになりました。外を見て、散歩に適した天気だと分かると、主人は最新のコンピューターを眺めたり、世界の取引状況を見たりするのに夢中になっていても、彼は全部シャットダウンして、来てくれます。私が一人で外出中に転倒ないように

野生動物の写真撮影は以前私の趣味だったけれど、今では主人が泳いでいるカメや枝に隠れているカワセミを見つけては興奮気味に教えてくれる。彼を退屈させてしまう心配は、ありません(少なくとも、そう心配しないようにと、主人は考えてくれています。)

そして昨年、私が歩くのを助けてくれる一番安い手押しカートを買ってきてくれないかと頼んだところ、彼はかなり遠くの店でバーゲンを見つけたと言って、それを買いに歩いて行ってくれたのです。まさか彼がネットでその店の品揃えを見て、私が自分では絶対に買わないような高級タイプを買ってくれたとは思いもしませんでした。

父の日のプレゼント。ちょっと待って。それって、お父さんが家族に贈るものではなく、家族がお父さんにプレゼントするものじゃないの?このブログ記事は逆だった。まいい。とにかく、愛という贈り物について書いたんだから――そして、愛は双方向のものだといいんだけど。

救われる

小1のとき、私は部屋に一人でいたとき、考えました。イエス様を信じると、天国に行って永遠に生きることができる。信じないと、永遠に地獄にいることになる。イエス様を信じたい。

その日、自分のベッドの上で、罪を告白し、神様の赦しと救いを頂きました。翌日、学校で(クリスチャンスクールだったのです)イエス様をみんなの前で告白しました。まだ覚えています。涙が自然に出てきたことを。

 

救われた1年生の自分と宣教師Esther Austin先生

イエス様を救い主として公に告白するのは、ある程度自分の信仰のためのものではないでしょうか。自分のことを言うと、一人で決心するだけで終わっていたら、実際信じたかどうか確信はなかったかもしれません。次の日の告白のときに、新しく生まれ変わった神の子であることを、はっきり感じることができたのです。

家と教会で救いがはっきり教えられていたこと、また学校でもイエスの救いが述べられていたこと、この様に早くからクリスチャンになれたことを、感謝します。

ジャニス・ジューン・ジョイス、クリスチャン・スクールオフィスの前

2026年6月20日土曜日

当蔵の教会と十字架の意味

あの当蔵の教会に来ていた人の「3種類」を覚えている:

十字架の意味が全く知らなかった人:当蔵の教会の前の道を通って大学に通っていた具志堅さんは、あの古い木造の家の戸に面白い看板と印が立っているのに気が付きました。「首里福音教会?」なんだろう。何かの新しい宗教?

とにかく白い十字架に向かって、手を合わせて、頭を下げた。これでいいだろう。具志堅さんは学校授業へ向かった。毎日そこを通るとき彼女は同じことをした。

ある日、の中まで入っていくことにして、十字架の意味を知り、自分のものにした。

***

十字架の意味を知っていたし、友達を連れてきた人:又吉さんは、忠実に教会に来ていた信者で、近くで勤めていた。おとなしい同僚が離島から来た。

又吉さんがキリスト教の話をしてみたら全然抵抗がなくて、教会にさそってみたら来てくれて、スグ青年会の暖かい雰囲気を好んでくれて、いつの間にか、イエス様を信じて、バプテスマクラスに入っていた!

又吉さんが知らなかったのは、この同僚は、子供のときに結核の信者から旧約聖書の物語をいっぱい聞かされていて、真の神様を心から信じていたのだった。当蔵の教会に来たときにイエスさまを救い主としただけだった。

***

十字架の意味をMeaning of the Crossとして知っていた:琉球大学で英語を教えていたクリスチャン教師、James Ney博士が当蔵の教会に来た。ネイ先生の証をダディーが日本語に通訳した。その日の当蔵宅で見たことを、母教会に書いた手紙が他のアメリカの教会に出回った結果、私たち家族にその12月、クリスマスプレゼントの小包が届き、さらに宣教団体に援助金が送られて、私たちが当蔵の、木造の家から・・・

大謝名という所の、冷房つき、ベッドに寝れる、水洗便所、モダンな台所とリビングダイニングがある、コンクリートの家に引っ越すことができた。聞くところによると、あの木造の家は、私たちが引っ越した翌日倒されて、もうない。あの時代から残ったのは、当蔵のストーブがシロアリはいない壁にうつしてくれた暖かい模様だった。

2026年6月19日金曜日

当蔵の七不思議

世界の七不思議とあるけれど、今日のブログは、自分が覚えている、当蔵の七不思議です:

1 大学生 当蔵時代のことを考えるとき、すぐ思い出すのが、大学生。あれ?すぐ近くにあるのが琉大。走って行けるほど。道を渡って、トリイを潜れば教育先端の大学。だけど、白い十字架の下に頭をさげて、畳をしいた、木造の首里福音教会に群がるんだよね:真壁・島尻・宮城・具志堅・峯井・等々。モダンの大学にじゃなく、おんぼろの教会に来たことが、どう考えても、不思議!

2 なんでばれた? 近所の友達が遊びに来る時は、いつも親に断ってから来ることになっていた。最初のうちは、嘘をつくだけで大丈夫だったけれど、学校のカバンを持っているとまずいからと外に置いてこさせた。それでも嘘がバレたのか、不思議で分からなかった。ゴミを捨てるために外に行かなくちゃならないのは、親なのに。

3 田原米子先生 沖縄の教会に来た田原先生の奥さんは、事故のため右手の3本の指しかなかったけれど、マリちゃんかルツちゃんの頭を左肩で押さえて、口でヘアピンを咥えて、指できように子供の髪を結ったり・・・リンゴも最初は半分に切って、ひらったい面をまな板に置き、残りは肩と3本の指だけで簡単に包丁で剥いていた。裁縫も、掃除も、料理も、スゴかった。ご主人もメッセージしてくれたり、歌ったり、ノコギリ演奏で特別賛美等をしてくれたりしたけれど、奥さん、凄すぎた!ほんと、あの数本の指で何でもできた。不思議。

4 ふろ あの家は、モト浴場とみんな知っていたはずだけど、たま~には、教会の礼拝にまで風呂に入る人もいた。なぜか、ダディー・マミーも賛成していた。風呂と言っても、みんなに見られるのが恥ずかしかったのかな、白い服を着たままだったし、すぐ出てきた。不思議。え、バプテスママ?

5 黒糖 ただの黒糖じゃなく、長田おじいちゃんの黒糖。このときまで、自分の住む家があって、私たちのために、いつも火鉢の網の上に板条の割ったものが置いてあった。「待たんといかんぞ。」と、怒こったような笑ったような声で言われた。周りが溶けてくると、「ホイ、いまがいいぞ、だれか食べんか。」不思議ほど、待たされた黒糖、美味しかった。

6 いもりのしっぽ びっくりすると、いもりは自分のしっぽを落として逃げて行くと聞いている。しっぽの神経が生きているため、ピクピクしていて、そのしっぽは敵の注意をさそい、いもりは逃げられることになっているみたい。ところが、自分は、子供の時、一度もいもりのしっぽを見たことがない。自分の知っていたいもりはお行儀のいいイモリばかり、自分のしっぽを片付けにきたみたい。実際見なかったから、これは不思議の一つには、本当はならないのかな。

7 にくいしゃもじ 当時のしつけは、これで尻をたたかれた。おもてに「へのへのもへじ」と書かれてあって、裏側に「やんちゃのせんせい」と書いてあった。自分はしつける親でなく、このシャモジがにくかった。それで、壁に吊るされてあるシャモジを、誰も見ていない時にそっと取って捨てようとしたけれど、生きていたように、いつの間にか、もとのところに戻っていた。不思議だった。

世界七不思議を創造してくれた神様が、当蔵七不思議を与えてくれたのね。

2026年6月18日木曜日

信じるだけでは足りない?

 5歳のときまで、救いのことをはっきり理解していました。ある日、中学生の日曜学校分級で母は(自分はひざ元に座っていた)生徒たちに聞いていた:「救われるためには何をしたらいいでしょう。」

中学生に質問していた

「神様を信じる。」

「そうですね。ほかにもっとありますね。」

「私たちが罪人であることを信じる。」

「それもそうです。まだあります。」

「イエス様が私たちのために死んだことを信じる。」

「そうです。そのほかに?」

「イエス様を救い主として受け入れるなら天国に行けることを信じる。」

「はい、そうです。でもまだ足りません。」

私はすぐそばに座っていたので、マミーのひじをトントンたたいて、小さい声で言ってみました。「そして、イエス様を受け入れることでしょう。ね、そうでしょう。」

「全部信じてもーー心の底から信じてもーーそれだけでは救われません。イエス様を実際受け入れなければなりません。」と母はいいます。

やっぱり。

私は何回も何回も聞いていたので、中学生が一生懸命考えてもわからなかったことを、自分はあたまで理解していました。 

幼児のときから5年生以上の夏季学校に参加していた

 だけど、子供の「理解」というものは、面白いものです。別の週、こんどは小学生の分級で、私は質問しました。「でも、もしイエス様を信じなくても、死んでじごくに行っても、、そのときイエス様に祈ったら、天国に連れてってもらえるんでしょう。」

神様は愛の神様だから、私たちをじごくの中から引き出してくれるに違いないと、思っていたのです。

「いいえ、そんなことは、ありません。いま、生きているあいだ、イエス様を信じなければなりません。」と先生は教えてくれました。「死んでからは、もうおそいのです。」

私はまだイエス様を救い主として受け入れていなかったのです。

2026年6月17日水曜日

自分がかいたの

6月4日が孫優聖君5歳になる誕生日だった。娘に送られたビデオをいっぱい見た。「親バカ」という表現があるみたいだけど、我が孫が世界一カワイイと思う祖母は、こういう場合、どうなるの?

自分が子供のとき、カナダ・ハワイにいた祖父・祖母に手紙を書くように言われたことを、思い出します。そのときは、英語がまだ自由だったので、自分は、よく聞いたみたいです。わたしは、アメリカ人?ハワイ人?カナダ人?日本人?沖縄人?私、いったい何者?

中国・日本から「墨絵」という、美しい美術法が生まれたと聞いていたので、母親になった自分は、密かに習字を学校の授業で受ける日本の子(自分の子を!)、うらやましく思っていました。華やかな西洋美術より、シンプルなラインとテーマを強調する、「素朴」な墨絵の方に自分は魅了されていました。今は日本に住んでいるから、もしかしたら、これが学べるのでは、と思いました。


ですが、他の美術のためには、色々練習したり、オンラインで勉強できますが、筆の正しい使い方は、やっぱり人が実際いないと正しく教わるのは難しいと思います。

特に自分は、日本語が苦手だから、オンラインで日本語で説明されたものは、理解・実践・習得しにくいです。にもかかわらず、テレビ番組で筆の使い方に関して何かが放送される時、集中して聞いたのを覚えています。実際自分が習字を少しすることが出来た時、何回も見たり、あたまの中でしていたので、「初めての習字」という気はしませんでした。

数年前、アフリカ系クリスチャン友達に子供が生まれ、「テンドー」と名づけました。ケニヤ語の名前ですが、自分は勝手に「天道」と漢字の二文字をつけて、彼女にプレゼントしました。日本語のこの2つの漢字にすると、「神様に目を向けた歩み」、すごくいい名前になると、話しました。

漢字の勉強は、子供の時、父母にするように言われていました。あとで見つけました:そのころの手紙:「おじいちゃま、おばあちゃま、お元気ですか。わたしもお元気です。」 

2026年6月16日火曜日

知念さん

宣教師に聞くと、外国の習慣・言葉等は、普通、親より子供の方が早く取得するみたいです。現地の友達と自由に遊ぶ子供に対して、大人は、宣教師学校で苦労して勉強した言葉をやっと話すのですが、私たちの場合、とても違っていました。マミーとダディーは、ハワイとカナダでも日本語学校で勉強していたので、きれいな日本語で話していました。

言葉でなく、習慣・ライフスタイルの助けになるようにと、与えられたのが、近くに住んでいた知念さん。実を言うと、マクリーディーというベテラン宣教師家族のお手伝いさんをしていたのですが、健康の問題で先生たちがアメリカに帰らなきゃならないことになった時、知念さんが大城家に来ることになったのです。

宣教師の動きに慣れていた知念さんは、凄い宝でした。ある午後、村の伝道を終えて、これから夕方の集会に出かけなければならないと考えながら帰宅した母は、びっくりさせられました。その晩着ようと思っていた服がアイロンされて、部屋に揃えてあったそうです。知念さんには何も言っていなかったのに。こういうことがよくあったみたいです。マクリーディー先生たちは大変な問題に会いましたが、私たちは大きな祝福を受けることになりました!

知念さんが沖縄で第二次世界戦争が終わる頃、捕まったら拷問されると聞かされていたので、親戚・知り合いと一緒に捕虜にされた時、兵隊の見ていない時に逃げたそうです。弱った体では、あまり遠く行くことはできず、また捕まってしまったけれど、やはり、大変な目に合うのが怖くて、すきを見て、なんとか逃げだしたみたい。すぐ捕まって、今度は、厳しく言われたみたい、落ち着いてください、じゃないと縛りますよと。よく見ると、先に捕まった自分の家族や友達は、ちゃんとした服を着て、いいものを食べさせられていた。え、ごうもんじゃないの?にげるんじゃなかった!と気が付いたと、知念さんは言いました。

大変な問題と思うものでも神様なら祝福に結びつけられる。最悪な状態に捕まってしまったと見えても神様は私たちを幸せの捕虜にしてくれる。大事なことは神様の守りの下にいることなのねと、知念さんは教えてくれた。

2026年6月15日月曜日

さとこちゃんは英語が上手

ジョイスは字が読めるまえから暗記していた。幼稚園のクリスマスプログラムの時だけじゃない。もちろん、ことばを覚える年だから、ある程度、あの挨拶のように、音の丸暗記だけかもしれない。

別のクリスマスイブ、教会の青年たちが近所のキャロリングを済ませ、アコーデオン・聖歌などを持って、教会に来た。皆、お菓子・お茶・暖かい交わりでクリスマスを迎えることにしていた。

さと子は起きて、みんなのいる部屋に出ていった。

いま暗記している聖句を聞かせようと、さと子は一人の青年の前に行き、「受けるよりは与える方が幸いです。」と大きな声で言ったそうです。

もちろん、ビックリした青年に何か甘いものが「与えられ」ました。わあい!「アリガトウ!」

となりに座っている人にも、そのとなりに座っている人にも、聖句を言ってみて、お菓子をいっぱいもらったそうです。
自分が何をしているのかが分からなくても、周りの人がドッと笑うとき、姉もハハハと気持ちよく笑ったそうです。

(みんなの喜びをもっと明るくしようとするーーたとえ笑われているのが自分であっても一緒に笑うーーこれは、小さいときからのジョイスのいいところだと思う。

こういうところからきているのかな。

2026年6月14日日曜日

光の子幼稚園


光の子幼稚園

あまりよく覚えていないけれど、当蔵の家に住んでいたときに近くにあった教会付属の「光の子幼稚園」行った。そのから姉妹と自分の性格が、はっきりと表れていたと、聞いている。 


私は一番小さい火

* 負けず嫌いの妹ジャニス愛子は、体が小さい、どうせかけっこはビリになるから運動会は嫌いと行きたがらなかったみたい。

おゆうぎは上手だったの。ほらね!

* 競争心の強い自分は、よーいドンの合図で、レーンを回るのではなく、ゴールテープを目掛けて運動場の真ん中をまっすぐ走ったそうだ。

外国語の挨拶も必要だった

* あの幼稚園に、青い目のお友達もいた。もちろん、特別プログラム等に両親が来た。幼稚園の先生たちは、姉のジョイス里子に、クリスマス・プログラムの英語挨拶をにお願いした。何を考えていたのか、当時は英語を一言もしゃべらなかったのに、それを引き受けてしまった。(教会の難しいことは父母はで英語で話していたが、私たちと喋るときは、いつも日本語だった。)

それから数週間、母と猛特訓:「サンキュー フォー カミン トウア クリスマス プログラム。ダ ロー ブレスユ。」(私たちのクリスマス・プログラムに来てありがとう。主に祝福されるように。)

なんとかなった。


写真撮影は私たちのキヨ先生のお母さんと、沖縄本島天願宅で!

私たちと園長先生たちは、思いがけないかたちで祝福されることになった:シラベ園長先生は数十年後、沖縄離島の石垣島の教会に派遣された。そこの教会員一人が、後に父が再婚した神学校卒業生島尻清子先生だった。

2026年6月13日土曜日

教えてくれたジョイス

いちばん最初の姉の記憶?既に私を教えていた。一年まえのショックから妹を守ってあげたいと思っていたのかな。


自分が産まれる前は、家庭の赤ちゃんは、姉しかいなかった。ところが、1歳のときまで両親の愛を独り占めしていたのが、急に変わることになった。マミーが病院から抱いてきた異様なものを、自分のベビーベッドに寝かされた。深く傷つけられ涙を流しているジョイスを見つけたマミーは、すぐ「可愛い妹」のいみを教えてあげたみたい。「いいオネエチャンしてあげてね」と。


翌年ジャニスが産まれたとき、「カワイイいもうとに良いオネエチャンするように」と、ジョイスが既に自分に教えていたので、マミーは何も言わなくても良かったみたいです。


妹たちが家の柱に住み込んでいるシロアリを怖がらないようにと、ジョイスは、面白い遊び方を見せてくれました。これは幼児時代の記憶です。シロアリを捕まえ、羽をもぎ取っていたのです!


スゴイでしょう。でも、その12月に、ダディーは黄色い3輪トラックの後ろからクリスマスプレゼントを下ろして、嬉しそうに言った:「今年からシロアリをおもちゃとしなくてもいいよ」と。え、なんで?あ、そうか!やったー!


やさしく教え続けてくれて、ためになったのね。神様、ジョイスのような姉をくれて、ありがとう。

2026年6月12日金曜日

説明、必要なかったかな?

 

ジャニス・ジューン・ジョイス

この説明、必要かな?私たちの家族のことを知らない人のために、書いた方がいいかも。父母は、私たち3人に、アメリカ・カナダにいる時、英語で話している時などのために、私たちに英語の名前を付けました。だから、ジョイス・ジューン・ジャニスという名前があります。学校教育は、英語だったので、使っている名前は、ほとんどの場合英語です。

ジョイス・さと子

だけど、日本語で生活している間のために、日本語名:さとこ・ともこ・あいこと、別の名前をくれました。姉は、父母が初めてふるさとに帰ってきてから与えられた赤ちゃんだったので、創世記28:15をとって、「ふるさと」からさと子という名前になったみたいです。

ジャニス・あい子

第一コリント13:13にいつまでも残るもののなかで、一番優れているのが愛とあります。妹は、そこから愛子と名前をもらいました。名前が決まったのは、妹が生まれた日の沖縄訪問者です。ちょうどその日、アイゼンハワーアメリカ大統領が、島にきていたそうです。アイゼンハワーのニックネームは「アイク」でした。「あまり関係ない?」そうかも。でも事実、来ていたの。

ジューン・とも子

「主を恐れることがちえのはじまりである。」こういうことばをつかう聖句は3つある。自分が好きなのは箴言9:10。「聖なる方を知ることは悟りである。」と終わる。宇堅の教会の姉妹数人が、自分が産まれた時、父母のところに来たと聞いてる。このみ言葉を差して、主を自分のちえとするように、智子という名前を付けてみるのはどうですかとプレゼントしてくれたそう。

自分の名前をくれた宇堅村のおばさんたち
(川端トミ・大城ヨシ・名護米子・大城澄子)

だから、ジョイスは里子のこと、ジューンは智子のこと、ジャニスは愛子のこと。そして、ダディーは父という意味、マミーは母!


大城ファミリー:マミー、ジャニス、ジョイス、ダディー、ジューン

嬉しい知らせ

沖縄からの一つの喜ばしい知らせは長田おじいちゃんのことでした。亡くなったことは、悲しくても、神様がこの死をも用いて祝福を与えてくれたことを感謝せずにはいられませんでした。 クリスチャンの内に宿る聖霊のちからを、おじいちゃんを通して学ぶことができました。沖縄の祖先崇拝に「ユタ」とい...