2026年7月21日火曜日

そうかもしれない?!

 

ジューン、裏庭で

学校では、正しい道のことをスタディホールでキャシーに分かち合っていました。けれど、家では.....ひどくなっていました。

私がいない方が家族は楽だ。でも、自分を殺すことは、できない。クリスチャンの命は、自分のものではない。じゃあ...家を出よう。私は、自分がたまらないほど嫌になって、逃げようと思いました。網戸を開けて、走って行く所でした...が、止まりました。3つのことのために、止められました。

1:行く所が、実際なかった。(アメリカに帰って来て一年だけだったので、あんあに多くの人を知っていたということではありません。)

2:お金がなかった。(現実的でしょう。)だけど、1番と2番だけでは、家を飛び出ていたと思います。何とかなると、いう必死な思いで。3番目の理由で全く止められました。

3:証が、どうなる。私たちは、高校に入ったときから、とてもオープンに証していたのです。ジューン、今逃げたら、みんなに何言われるか、分かる?「ジューンはクリスチャンだったけれど、問題が負いきれなくなった。そんなキリスト教は欲しくないね。」それに、いままで訓練してきたキャシーは、どうするの。彼女の信仰が、ジューンがいま行っちゃったら、だめになるかも。ダディーとマミーの宣教師としての働きは?ジューンがこんなことしたら、やめなければならないのよ。神も家族も忠実なのに、足りないのは私、罪深いのは私なのに...自分勝手に家出したりしたら、みんなの証がだめになる。

こんなこと、できないと、思い、自分の後ろにドアを閉め、そこに座り込みました。生きることは苦痛。死ぬことは、できない。家にいることは、家族を困らせるだけ。逃げることはできない。あたまが回らなくなりました。

日が沈み、外は暗くなっているのですけれど、私は動こうとしません。家の中で私の名前が呼ばれているのが聞こえますけれど、何の反応もしません。母は外の電気で私の座っている姿を見て、ドアの方に来ました。

「また、どうしたの。」(こういう問題を起こすのは初めてじゃなかったので)

私は仕方なく立って、家に入り、地下室に下る階段がそこにあったので、2,3段下りて、レールをつかみ、下を向いていました。

「どうしたの。」

「わたし...」口に出すのに時間が掛かりました。「家族のひとりとなる資格はない。」

何の返事も返ってきません。マミー、何考えてるの。どうして何も言わないの。家族の一人になる資格がないと言ったのに、どう思うの。

「そうかもしれない。」

えっ?

「そうかもしれない。」と母はゆっくり言いました。「だけど、神様の家族のひとりになる資格のある人は一人も、いる?」

母は、私の目を、自分自身の罪深さ・みにくさから離させ、神の愛に向けてくれたのです。主はこの私をも愛していることに。イエス様は、この私のために死んでくれる程愛してくださったことに。目から流れ出る涙は止まりません。神様は、私を愛している...この私を!

そして、イエス様が死んでくださったのは、このみじめな、罪だらけな、なさけない者を、十字架にはりつける為。実際、ジューンは十字架で殺されたのだ。神がいま望んでいるのは、イエス様のきよい命が私を通して生きること。私を通して!

汚れた]私はキリストとともに十字架につけられました。もはや[けがれた]私が生きているのではなく、キリストが私[の体]のうちに生きておられるのです。いま[ジューンという]私が、この世に生きているのは、[ジューンという]私を愛し、[ジューンという]私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20

ペテロが水の上を歩こうとしたとき、自分の足元を診たり、波を診たりして沈み始めました。イエス様を見上げたとき、水の中から引き上げられました。そのときの私も自分の弱さ、周りの困難を見て、おぼれ始めていたのです。でも、あの晩、母に助けられ、主イエス・キリストの十字架に目を止めることができたのです。私の生活は、一晩で変わったとは言いません。でも、そのとき、私は自分の「失望の沼」から這い上がることができて、生きた感謝と希望が与えられたのです。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私の方に身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足をいわおの上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、我らの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。詩篇40:1-3

しなけれがならないことを少しづつし始めた

高2の残り、新しいジューンが生きていること(実際はジューンじゃなくてイエス様)を、なんとなく感じました。失敗することがあっても、以前のように人の目を気にしたり、すぐ傷つけられたり、落胆したりすることが少なくなってきました。イエス様の命を生きるために歩みを整えていく。この戦いは、イエス様と私だけの秘密。孤独と欲求不満を感じるより、神様との新しい関係を喜ぶことができました。そのあとの数年、申命記32:12前半をじぶんのものと考え始めました。

ただ主だけでこれを[ジューンを]導き......

それに、そのとき示されたのは....私の「失望の沼」の経験は、私の祈りの答えだったということ!小6年の後のキャンプのことを思い出しました。フルタイムに献身したことは、覚えていましたけれど、その後の祈りのことは、すっかり忘れていたのです。

私は多くの証を聞いていました。罪を経験し、罪の傷を知って、その状態からーー大人になってからーー救われた人は、多くの場合、感謝に溢れていて、決心なクリスチャンだったのです。一方、子供の頃からクリスチャン・ホームやクリスチャン・スクールで育った人は、多くの場合、そういう恵みを当たり前と考え、生ぬるいクリスチャンだったのです。

なぜだろうと思うことがありました。そのとき一つ分かってきたのは、罪を憎む、罪から遠ざかろうとするのは、自然に主を愛し、善を慕うようになる、と。

祈るのは怖かったのですけれど、祈りました。私に悪を憎むこと、主を愛することを、どんな経験を通してでも、教えてください、と。その祈りのことを忘れていたのですけれど、神様は、ちゃんと答えてくれていたのでした。

高1年にあがる時、母に言われていました。「試練を通るちからが与えられるのを祈るはいいことだけれど、ジューンがいつか主にその試練自体を感謝するようになる。マミーはその日が来るのを楽しみにしている。」と。その時は、「試練自体?まさか!」と思いました。

しかし、その2年の時、私の通って来た「沼」が祈りの答えだったということがわかると、感謝せずにはいられませんでした。

そうかもしれない?!

  ジューン、裏庭で 学校では、正しい道のことをスタディホールでキャシーに分かち合っていました。けれど、家では .....ひどくなっていました。 私がいない方が家族は楽だ。でも、自分を殺すことは、できない。クリスチャンの命は、自分のものではない。じゃあ ...家を出よう。私は、自...