小1の時、自分は初めてひとりでバスに乗りました。それが、運賃用金が見つからなかったので払えないと思い、自分は終点まで行ってしまいました。そこで迷子になって泣いている自分を見つけたバス女性乗客員に助けられて、家に帰ることができました。
家に帰ると、家族は私のことを心配してくれていたので、終点まで行って帰って来たことを話した時、きかれました。
「いっぱい泣いたでしょう。」
「泣いた?なんで泣くの?」と答えてしまいました。あっ。いまの、うそ。と、自分は分かりました。
「へえー。えらいね。そんな大変なことがあっても泣かないなんて。」
でも、私は自分のことをえらいと思えませんでした。泣かなかったことが本当でなかったということだけでなく、私がそのことについて嘘をついたということを知っていたからです。
聖霊がクリスチャンの心の中に宿っているかぎり、罪は決して面白いものではありません。どんなに小さな罪でも。私は、数年後、この嘘の罪の重荷を心の奥底に閉じ込めようとしました。
けれど、その罪に攻められて、あるキャンプのとき、集会がとっくに終わっていたのに、私は席から動けませんでした。母が私を見て、「ジューン、どうしたの。」と尋ねました。
「うん。あのね、私...祈って告白したいものがあるの。」
メッセンジャーと一緒に祈ることにしました。私は神様に、また家族に、嘘の罪を告白し赦してもらいました。心がなんとかるくなったことでしょう!赦し、自由、喜び...涙が与えられました。
小さいことでしょうか。そう思われるかもしれません。でも、これを通して大きい大きいことを学びました。罪は決して好むものではないということ。また、罪に対して心をかたくなにするとき、「心の損害」を経験するということ。罪を告白することによって、全き平安と喜びを取り戻すことができるということ。Iヨハネ1・9の真実。クリスチャンとしての歩みの中で色々な問題・祝福を経験していますけれど、心の根本的動きは、あまり変わらないと思います。かたちだけがかわるのだと思います。
一生ためになる原則を早くから教えてくださった神様を感謝します。