5歳のときまで、救いのことをはっきり理解していました。ある日、中学生の日曜学校分級で母は(自分はひざ元に座っていた)生徒たちに聞いていた:「救われるためには何をしたらいいでしょう。」
中学生に質問していた
「神様を信じる。」
「そうですね。ほかにもっとありますね。」
「私たちが罪人であることを信じる。」
「それもそうです。まだあります。」
「イエス様が私たちのために死んだことを信じる。」
「そうです。そのほかに?」
「イエス様を救い主として受け入れるなら天国に行けることを信じる。」
「はい、そうです。でもまだ足りません。」
私はすぐそばに座っていたので、マミーのひじをトントンたたいて、小さい声で言ってみました。「そして、イエス様を受け入れることでしょう。ね、そうでしょう。」
「全部信じてもーー心の底から信じてもーーそれだけでは救われません。イエス様を実際受け入れなければなりません。」と母はいいます。
やっぱり。
私は何回も何回も聞いていたので、中学生が一生懸命考えてもわからなかったことを、自分はあたまで理解していました。
幼児のときから5年生以上の夏季学校に参加していた
だけど、子供の「理解」というものは、面白いものです。別の週、こんどは小学生の分級で、私は質問しました。「でも、もしイエス様を信じなくても、死んでじごくに行っても、、そのときイエス様に祈ったら、天国に連れてってもらえるんでしょう。」
神様は愛の神様だから、私たちをじごくの中から引き出してくれるに違いないと、思っていたのです。
「いいえ、そんなことは、ありません。いま、生きているあいだ、イエス様を信じなければなりません。」と先生は教えてくれました。「死んでからは、もうおそいのです。」
私はまだイエス様を救い主として受け入れていなかったのです。