2026年8月19日水曜日

マネキンに謝る

後期の前に寮を出ましたけれど、沖縄に帰るのは数日後でした。女子部長は町に住んでいる家族に電話し、ジューンを少しの間泊めてもらえませんかと、お願いしてくれました。人をもてなす賜物がこの家族にはっきり見えました。家に入った時から、リラックスできて、自分の家にいるほど自由にくつろぐことができる様に暖かく感じました。

Jackie & Margie Shultz 

そこのお父さんは40代に牧会に召され、上の子供2人は大学で、下の2人はボブジョーンズアカデミーで勉強していました。お父さんは近くの工場で夜間カードマンをしていて、こどもたちは中学生になるとすぐバイトにでていたそうです。みんな働き者でした。 

この家族は、お金持ちではないが、すごく楽に感じさせられた。1年前の金持ちの家とは対照的と、思わされました。そこは何もかもあるように見えたけど、重い空気にまとわれ、いま晴れているけれど、いつ嵐になるのか分からなかった。ボブジョーンズ女子部長は、このShultzファミリーの話を、いっぱい聞いていたみたい。私のことを、全然ちゅうちょしないで、この家族に電話したところを見るとわかる。 

そこの三女は、私のように病気になったことがあったので、私のことを理解し、初めからマイペースに動くように、無理しないようにと安心させられました。家族の一人一人と仲良くなれて(中学生2人とでも!)、とても嬉しかったです。沖縄に行く日、お父さんとお母さんが私を空港まで見送ってくれました。 

甲状腺機能低下のことを知っている人は、これから言うことは分かると思いますが、私が沖縄に着いた時は、自分の健康状態があまりも悪化していたので、自分の状態を説明することが出来ませんでした。説明できないところか、はっきり考えることさえ出来なくなっていました。そして、時々バランスが取れなくなったりしました。

父母は、私が「ただ」疲れているのだと思って、沖縄に来させて、帰ってきてゆっくり休ませてあげようと考えていました。ところが甲状腺低機能は、休むだけでは治りません。それをはっきり説明するちからすらないのが甲状腺低機能の問題。ということで、沖縄に帰っても、最初の数週間は、何もせず過ぎました。 

自分の気持ちがコントロールできなくなって、ある日父をとっても怒って、ひどいことをいっぱい言ってしまいました。頭のなかで「やめなさい!」と思っても、心の中の悪を隠すことが出来ず、口からはたまっていた思いが次々と飛び出してしまったのです。 

が、次の日、両親と一緒に買い物に行って、車で待っていました。父は車に帰って来ると、後ろ座席に座っている私に箱を渡し「マミーと一緒に選んでみたものだけど、これで、いいかな。」と、言いました。開けてみると、ずっと欲しかったラジカセでした。昨日ひどいことを言ったばかりの私に。

父にもらった、一番ためになったプレゼントは、そのラジカセで聞いた、5つのメッセージシリーズのテープでした。実は、これも、その年、父にもらったものです。クリスチャンの心・思いについての説教、自分が部屋で横になっているとき、庭の花に水をやっているとき、数回聞きました。普通の説教を聞くのは一回きりですが、それと違って、あのラジカセで繰り返し聞くことができたので、このシリーズは聞き逃したところは、はっきり分からなかったところは、なかったと思います。頭の回転が遅い私にピッタリでした。 

別の日、買い物のバーゲンで、一番下に畳んで揃えてあるものを見終えて立とうとしたとき、バランスが急にくずれて前に倒れ込んでしまいました。

「あ!すみません!」やっちゃった・・・前のお客さん、ビックリさせちゃった。「ホントに申し訳ありません、失礼しました・・・あれ?」マネキン


娘がシツレイ・・・       そう、ただのマネキンでした

走って来た心配そうな両親に話したとき、初めて甲状腺を医者に見てもらおうということになりました!ジューンが口で説明できないなら、倒れてマネキンにさせようと神様は働いてくれたのです!ロバに言葉を授ける神様に、不可能なことは一つもありません!(ルカ1:37)

それからの色々な検査...ある日は5時間の間、30分

毎に採血することになっていました。外来の看護士と研究室の技師と親しくなりました。色々質問したりして、どの針が何のために使われて、検査の結果がどの様に分かる等分かってきました。注射する時に逆圧力を使うと、針は動かないとか、言っていましたけれど、7,8,9,10回目になると、もっと深くにある血管を使わなければならないので、どんなに上手にしても、やはり痛いです。でも、看護士は私の具合のことを気を付けて聞いてくれたので、自分もいつか看護士になれないかと思うほどでした。 

一つの血液検査は、当時、沖縄の病院に必要な検査器具がなかったので、採血れたものが東京の大きい病院に送られて、結果が沖縄の病院に知らされていました。一カ月ぐらいかかりました。これが甲状腺の検査でした。私の甲状腺は堺線低機能と分かりました。 

甲状腺の病気であることが分かって、薬の量が決まるまで、約一年掛かりました。ベース量を一カ月服用し、採血して、それが東京の病院に送られ結果が帰って来るまで一カ月待って、量が足りないということだったから増やした量を一カ月服用し、また検査して、採血されたものが東京に送られあと1カ月結果待ち...ということだったので、この間、心臓・神経・血圧のことも注意しながらしていました。(私の場合、てんかんの為に薬はあと2種類も服用していたので、そのことも考えてなければなりませんでした。)

甲状腺の正しい量が見つかっても、今度は弱った体の立て直し、体力づくりのリハビリがありました:毎朝起きて広ーいMorgan Manor住宅の回りを、ジョッギング。時々止まって、病院で見せてくれたように、指を首に当てて心臓の脈を測ったりしました。

Morgan Manorジョギングをしてでリハビリ 

若いクリスチャンは「霊的」ことが大切、こんな肉体ことはどうでもいいと、思いがちかもしれません・・・私も、なんで、こんなに長くかかっているんだろう、早く元気になって、大学からかえってきて宣教の仕事をしたいと、思いました。 

「わたしの計画に対して、文句を言うのですか。」と、神様に言われたように感じました。 

「でも、神様、何をしているのですか?私には全然わかりません。」 

主のみむねに全てをゆだねることができる日がきました。 

「神様、あなたの時刻表に任せます。御心どおりに働いてください。」

そう祈ることが出来たとき、薬の量が安定してきて、前期の中断された勉強に戻ることができ(沖縄の学校の教室で期末試験を4つ受けました)。体力づくりと精神的カムバックにも務めることができました。 

そのとき、石垣島から島尻先生が家に来ました。先生も私のように精神的に相当弱っていました。父と母から話を聞きました。石垣の教会と元牧師は教会の動きの問題のうずに引き込まれてしまって、島尻先生は、逃げてきたのでした。ある日、問題の圧力を感じ彼女は牧師にどうするのかと教会の動きのことを伺った時、はじき飛ばされました。

島尻先生が来た 

「きみは、大城先生たちみたいだ。牧師に従えないなら、出ていけ。」と一方的に言われたみたいです。(その時、島尻先生は教理とか、分離のことは、何も考えていませんでした。まだ、そのことは何も輪からなかったのです。)教会から追い出され、島尻先生の悪い噂が沖縄本島の宣教師先生のにもひろがり、そこに行っても、彼女の話を聞こうとせず、「自分の罪を悔い改めるまで来ないで下さい」という責めの言葉で追い返されたみたい。 

他に行く所なく、島尻先生は信仰の親のところに(異端にはいったと噂されていた大城先生のところに)来たということでした。他にどういうことがあったか分かりませんが、島尻先生は、その時思ったそうです: 

「質問するだけで『大城先生みたい』と、どなりつけられたので、『大城先生、異端に入った』も、誤解されている。そんなに恐ろしい人間ではないはず。」こういう話を聞いて悲しみましたた、それと同時に神様の働きを感じました:

私たちは、こういう話を聞いて、もちろん悲しみましたが・・・人間の親は、小さい子が

正しい道を歩もうと思っても悪い道にまよい込んでいるのを見たら、なんらかの方法で助け出そうとするのではないでしょうか。父なる天の神様も、ご自分の子供が正しい道を歩みたいと、心から願っているときは、それがいちばんよく知っている。そして、悪い道にいて、自分の力ででることが出来ないとき、神様は素晴らしい知恵・ちからをはたらかせて・病気・誤解・不正までも、私たちをその誤った道から優しく追い出してくれるのですね(ローマ8:28)私たちが理解できなくても、神様の愛を疑うことになっても! 

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 

島尻先生は、10年以上FEGCの婦人伝道者の働きをしたのですけれど、そのとき退職手当が渡されました。事実を説明しようとすればするほど噂はひどくなるだけでした。自分の行動を説明しようとするより、神様の前で正しいと思う道を何も言わないで歩むしかないと、母は言いました。

「あの頃は一生懸命だった」 

混乱・失望・疲れの中に感じたみことばの約束を、数カ月も島尻先生と分かち合うことができました。(一緒に住んでいたのです。)島尻先生のことを初めて聞いたときに与えられたみことばは、イザヤ54:17でした。主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。 

あなたを攻めるために作られた武器は、どれも役に立たなくなる。また、裁きの時、あなたを責め立てるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受けつぐ分、わたしから受ける彼らの義である。ーー主の御告げ。ーー 

その春、ちちも私もボブジョーンズにいるジョイスとジャニスに手紙を書いた時、島尻先生のことも述べました。 

「心から主に従いたいと願っている島尻先生は、これから私たちの家族に大きな助けになるに違いありません。主の働きを期待するだけです。」と。それがいつかは預言の言葉のように聞こえることは思いもしませんでした。 

島尻先生は少し落ちつくまで私たちのところに泊まり、よくなったら、お母さんの住んでいる石垣島に帰りました。特別話し相手がいなくなってしまったと、とても寂しく感じたのを覚えています。

2026年8月18日火曜日

家からの手紙

結局、そのレッスンは教えられませんでした。一月になって、私は気管支炎になり、2週間半も入院しなければならないことになりました。

いま考えてみると、その入院期間中いちばん助けになったのは、姉のジョイスでした。姉は、ほとんど毎日訪問しに来てくれたり、夜は病院まで手紙を送ってくれたりしていました。(ボブジョーンズでは、寮とか病院の間の特別学生郵便システムがあります。毎晩(雨の日も)数十人の協力で、部屋から部屋までと手紙が配られます。)あ、いま思ったけれど、メールになってから、これはもうなくなっているのね。なんだか悲しい。ボブジョーンズの思い出話は、あの学生郵便システムにいっぱいあったから。 

私は入院していたので自分でできなかったため、ジョイスが代わりに後期の授業のために、どの教科書が必要なのか、書店での定価を調べたり、女子寮に行って中古・貸出の教科書も調べてくれたりして、莫大な時間をさいてくれた。

ジョイスが行ってくれた 

でも何よりも宝物と感じたのは、ジョイスが買ってくれた2冊のいいノート(私は、いつも安物を使っていた)。ジャーナルとして使って、初めて聖書の学びの時に広いマージンがあったから、自分のチェーン式勉強を作ることができて、スゴク面白くなった。日曜日は早く起きてトイレに行き、カーテンをベッドの周りに引き、看護士たちは、私を静かにさせてくれた。(これがBob Jones Infirmaryだったからだと思う。普通の病院では、こんなの、とてもできなかった。) 

休んでも熱は下がらないし、咳は止まりません。(咳止め薬は3種類も飲まされました。) 

30秒も続く強い咳に変わり、ある晩、脇の筋を違えてしまいました。その時の痛みは思い出したくありません。周りにうめき声を聞かせたくなかったので、部屋を出たことを覚えています。トイレで一人で苦しんでいると思っていた時、聞こえてきたようでした: 

「昼には、主が恵みをほどこし、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。」 詩篇42:8

自分の言葉では十分に言えません。でも、その時、感じました。主は、よく分かっている。十字架の苦しみを私たちの代わりに受けて下さった主は分かっている。そして共にいて、離れることはない。 

歌詞があたまの中を流れました:

 

ちょうど必要な時に イエス様は近くにいて下さる つまづく時に 恐れる時に

 たすけて下さる・なぐさめて下さる いちばん必要なときに

 

ちょうど必要な時に イエス様は強くいて下さる 一日中重荷を負って下さり あらゆる

 悲しみの中にも賛美を授けて下さる いちばん必要なときに

 

ちょうど必要な時に イエス様は私の全てになって下さる 呼び求める時は聞いて下さり

 倒れないように優しく見守って下さる いちばん必要なときに


肉体的に楽だったとは言えませんけれど、その晩の祝福、「イエス様と私」という、親しい関係は、その時まで知りませんでした。体の痛みを避けるために、その晩の経験を手放したいと、思ったことは一度もありません。天国に着くまで、この恵みを分かち合う、相応しい言葉は、見つからないと思います。

 (30年後も、あまり強く笑うと、時々脇の筋肉がピーンと痛くなることがありました。正しく治らなかったのかもしれません。) 

入院の最後の数日間、平らになって寝ることはできませんでした。筋肉がある程度よくなるまで、歩くとき、真っすぐ立てませんでした。3日でよくなると思われたものが、こんなに長く続いたので、大学のお医者さん(サイトウという人!日経人。)は、体は大分弱っているので、勉強は後期の終わりまで続けられないだろう、家に帰ったらどうですかと、言いました。私の甲状腺も調てもらった方がいいと、言いました。

Barge Memorial Infirmary(保険院)

ちょうどその時、「無理しなくてもいい、沖縄に来て休んだらどう」という連絡が、沖縄にいる母から来た。導きではないかと、ジョイスとディーニーも同意してくれた。 

父母に電話し、医者に言われたことを話す前に母は私の夏からの健康の不安定なことを考えて、体をこわしたらいけないから沖縄に帰ってきて、少し休んでみたらどうですかと言ってくれました。母も自分の若い時のことを思い出していたのでしょう。

 後期の休学が決まった時前期の最後のMPBメッセンジャーをお願いされました。1年のときから、極東アジアのメッセンジャーをしたり、食堂アルバイト性の祈り団で話したり(1時間後で行われていた)、高校祈り団でも重荷を分かち合ったり(別の建物)していたので、急に新しいことをお願いされて困るということではありませんでした。

そのときの準備を覚えています。この様に準備するように導かれたのは、その時が初めてで、それきりです。自分の経験に目を引いたり、人の感情に訴えたりしてはいけない、と示され、表現・表情を抑えるように考えました。それに、特別宣教チャレンジを準備するより、ジャーナルに記載されたものを分かち合い、霊的励ましを与えることになりました。MPBの方からは、何のことを話すようにということは一つもありませんでした。主に道かれるようにということでした。

   

こんどMPBで話す時は・・・        「わたしは祈っています。」 

その日は普通の倍の人が出席していました。私の心は、自分でもびっくりする程落ちついていて、神様の働きを期待していたことをおぼえています。話を始める前、ジョイスは私のためにピりピ1:9-11を読んで涙ぐんで紹介してくれました(そのときまで、ジョイスはMPB女子会長・司会者になっていました。) 

「私は祈っています。あなたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたが、真に優れたものを見分けることができるようになりますように。またあなたが、キリストの目には純粋で避難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現れますように。」 

賛美のときに、何かリクエストがありますかと聞かれたので、入院中、ルームメイトに送られて励ましとなった聖歌590にしました。「救い主イエスと共に行く身は」です。

 

救い主イエスと共に行く身は

乏しきことなく恐れもあらじ

イエスは安き持て心たらわせ(満足させ)

物事すべてを良きに成したもう

 

坂道に強き御手を差し伸べ

試みのときは恵みをたもう

弱き我がたまの渇くおりしも

目の前の岩は裂けて水沸く

 

いかに満ちみてる恵み成るかや

約束しませる家に帰らば

我がたまは歌わん力の限り

君に守られて今日まで来ぬと


どういうものを分かち合ったのかは、はっきり覚えていません。十字架で示された愛に目が開かれたこと、心から神に近づこうとすること等でした(ジャーナルには、こう記載されてある)。主よ、語り掛けてくださいと、祈りながら、単調で読んだことを覚えています。途中で夢中になって、ジェスチャーを加えてしまったけれど。


Julie Keyt, Janice Hoxey 

MPBが終った後、MPBでできた友だちが、自分が沖縄に行く前に会いに来ました。その後、もちろん、その学年を同じ状態で始めたジュリー・ジャニスとも会いました(2人ともMPBレギュラーでした)。涙と感謝と導きの祈りで別れました。

これからも同じお父様に守られて

2026年8月17日月曜日

自己紹介無用

ボブジョーンズの女子部長に私の問題のことを話してみました。Barker部長の従弟の娘は自分に似た問題を抱えていたと妹に聞いていました。その夏妹、その従弟の所に泊まっていたのでよく知っていました。これも神様の特別な知恵と導きだとしか思えません。
 
ちなみに、この「従弟の子」の名前もジャニス、妹と同じです!ボブジョーンズに言ったら、「ジャニス」という名前の学生がわりといっぱいいた。あまりよく使われていないと思って、びっくりした。(1979年間にファーストネームで「ジャニス」と20人以上載っているの!)調べてみたら、英語の意味は、「神の恵み深い賜物」です。
 
なるほど。一般社会では、あまり人気が高くなくても、神様に従っているという人たちが集まる所では良く聞かれる名前なのね。そう言えば、あのユダヤ人たちがいっぱい居たハイスクールでも「ジャニス」という名前の子が2,3人いたし。 

あ、今日の話は「ジャニス」じゃなくて、「ジュリー」のことなの。
 
私も、ジャニスも、もう一人の女子生徒、Julie Keytという人も、スゴク疲れていて、ハードな大学ペースについていけるかどうか分からないようになっていた。Barker先生は言ってくれました:「特別扱いにします。」心配しないで秋に来てみたらどうですかと言ってくれました。「普段、学費は、学期の初めで全額払いが求められるのですが、あなたたちは、できるだけやってみて、とてもだめだと分かったら、そのとき休学したらどうですか。全額を要求しないようにします。

Luena Barker 

それに、学校のペース・勉強のストレスがたまって倒れそうになるとき、どうぞ私のアパートに来て、休んでください。寮の音も、毎時間のベルも、ありませんから、もっとゆっくりできると思います。 

そういうことで、大学3年目に入りました。
 
まだ覚えています:もう一人のジャニスと一緒にいた私は、勿論ジュリーニ会いたかった。

私たちのように疲れて、フォーカスが時々おかしくなって、簡単にくたびれて、周りから見ると、おかしくて、ちょっとこわれものかな?部長の所に行ってもいなかった。でも夕食のとき、食堂前では絶対会える。 

あ!階段の上の方に立っていた。目を合わせるだけですぐ分かりました。自分と同じようなちょっと「浮いている」目でした。 

「どんな時でも、主の恵みは十分なのね!」と私の口から言葉がでてきました。(自己紹介はまだしていなかったのです!) 

「そう!そして、下には、永遠の腕が!」と答えが返ってきました。「主はいつも支えてくれるの。私たちを決して見捨てることはない!」両手をまえに出して自分の方に歩いてきました。 

この人と、いい友だちになれると、その時から感じました。

9月に冬着でなかった。

写真見はこれしか見つからなかっただけ!

その後、ジャニスとジュリーは少しづつ元気になりましたが、私は悪くなる一方でした。 
集中力がなくて、読む時、自分で書く時も、センテンスの終わりに来ると、初めに何が言われていたか、忘れてしまっていました。歩くときはバランスがおかしくなって、物を落としたりしていました。話そうとすると、文法がメチャクチャになったりしていました。 
CSの教師をお願いされていました。クラスは200人女子大学生ですが、教師は4人、順番で教えるシステムだったので、3週前から準備仕始めることができます。私はベッドで寝ているときも、何をどう言うのかを考えて、話すことをカードに書いて、教える時は、それが手離せませんでした。 

何よりも感謝だったのは、その学期のCSの学びはヤコブ書の学びだったことです。集中して考えなくても、ヤコブ書は覚えたばかりだったので、御言葉の引用だったらスムーズにでてきたので、助かりました。
 
最初のレッスンを教えたとき、2つの特別な祝福がありました。普通CSを教える時、レッスンの準備を通して色々学ぶことができます。でも、このレッスンは例外でした。レッスンの準備をしながら、その前に学ばされたことがいっぱい頭に浮かんできました。 

女子部長の姪(ジャニス・ホクシー)が経験した色々な恵み。その最初の日曜、様々な心理を、確信をもって分かち合うことができました。神様がそのとき、私に笑顔を見せてくれたようでした。 

「そう。わたしは、ジューンの今の状態も、夏の状態も、ちゃんと見ている。がんばって下さい。」と。 

もう一つの祝福というのは、聖書朗読の時でした。ほとんど皆自分の聖書を見て読んでいました。私は、その時の脳の弱った力では、字を読もうとするより、暗記したものを口で言う方が楽でした。それで、私は皆を見ながら聖句を言っていました。生徒の中で一人だけ私の方を見て御言葉を「読んでいました。」多分彼女もヤコブ書を暗記したのです!彼女にうなずいてレッスンを続けましたけれど、その時も、主の笑顔が見えたようでした。 

ヤコブ書の研究は、12月の終わりまででした。冬休みの数週間後、学校に帰ってきてから最初の日曜日のCSは私の晩になっていました。レッスン・マニュアルは借りることにしました。次の研究はヨブ記でした。 

その年の冬休みはディーニーの家族と一緒にいることになりました。 

デイーニーのお母さんは、私の寸法を測って、かわいいワンピースを塗ってくれました。私は大学に返ると、わざと、数カ月それを着ないようにしました。米国の女性たちは、復活祭に新しい服を着るみたいなので、自分はそのためにとっておきました。(その日に新しい服を着ても、他の女性たちの華やかなものに隠れて、全然気が付かれなかったけkれど。でも私のデイーニーのお母さんへの感謝の気持ちは、少しも減りませんでした。)

ディーニーのお母さんが作ってくれたワンピース 

ディーニーのお母さん、Rose、のことについて、その冬聞いたことを、ここで少し分かち合います。Roseは、産まれつきの障害のために、小さくて、弱かったみたい。大人になって、子供のときは、他人だけでなく、親にもいじめられているような感じたした。大人になって、お母さんと話したとき、泣いて、「おまえだけは、どうしても愛することが出来なかった」と、告白されたそう。 

Roseはイエスさまを信じていたけれど、言うまでもなく、相当の精神的戦いで育った。ひとに何も求められない・頼られないということを学び、聖書に縋りつくことを学んだ。痛い話をきいて、曲がった心・苦い気持ちを持った人間になってもおかしくないはずだが、やっぱり御言葉の生きたちからのあらわれでしか説明できない:Roseは、暖かい、優しい、おとなしい母親になっている。つらい過去の面影は少しもない。 

「だけどね、」と彼女は言う、「自分の精神的健康のために、毎年少なくて4度は聖書通読が必要なの。」 

この聖書に縛られているRoseの祈りは、ちからがあると、子供は知っていた。その冬見た。特に雪が降って欲しい日に、お母さんの所に行って、彼女にお願いしていた、晴れるように祈らないようにと。お母さんがそう祈ると、ゼッタイ雪が降らないから! 

*   *   * 

このディーニーの家で冬休みをすごし、次のCSレッスンの準備をすることになったのです。

「次はヨブ記なんだけど、ちょっと心配。」と彼女に言いました。
「なあぜ。」
「だって、ほら、いつも聞くでしょう。何かを教える前に教師自身がそれを学べなければならない。ヨブ記の様なこと、習いたいかなと、考えてるの。」 
「そうね。どういう風に教えられるかしら。楽しみね。」と笑いながら答えました。

2026年8月16日日曜日

暖房された歩道

ボブジョーンズの最初のルームメイトのアドバイスで十分休むことを学んだはずでしたけれど、やはり2年も少しづつ、そのことを忘れて、やり過ぎて、夏まで、とても疲れていました。笑顔するのが難しくなって、ほとんどのことを無理してしていました。夏休みまであと数カ月、あと数週間、その時まで、なんとか我慢しようと、思い、周りの人に自分の疲れのことは何も言いませんでした。周りの生徒も、みんな疲れている。彼らの重荷になってはいけないと、思っていました。

学校の一年が終ると、その疲れがどっと出ました。(学生がほとんど皆家に帰って、寮に残っていたのが数人だけのとき。)私がダラダラしているのを見て、ジャニスは少しイライラして私の態度を怒りました。その時、私は自分の疲れのことを、爆発するように、話して、部屋をとび出ました。 

女子トイレに行き、一人で泣いていました。体はあたまについて行けない。自分の気持ちをコントロールできない。他の人とコミュニケーションできない。ジョイスは昨年とても疲れたので、私の反応を見て、すぐ分かったみたいです。同じことだって。ジャニスに少し説明して、私の所に来ました。気持ちが分かる、疲れを表しても大丈夫と、言ってくれたので、私はちょっとしたら落ちついてジョイスと一緒に部屋に戻りました。ジャニス、分からなかったのに、どなってビックリさせたりして、ごめんね。 

*   *   *

大学2年のあとの夏、私がテネシー州の宝石会社のクリスチャン社長の家に行くことになりました。奥さんが助けが必要だけど、教会で相談された、ジューン、来てもらえませんかと電話でお願いされて引き受けました。電話は自分が沖縄で卒業した学校のぺディー校長先生の奥さんからでした。あとで分かったことは、その電話中、社長の奥さんがすぐ側にいたため、肝心なことは、言えなかったということです。


Peach社長と夫人、 Angie,JamesLee,Bubba 

長い話を短くします。数年前、奥さんはひどい神経衰弱のため、入院し、しばらく、子供達は祖父祖母・親戚にたらいまわしにされた。いまはお母さんが、ある程度安定してきたので、家に帰ってきて、子供たちも戻っているが、家のことは一人では無理、誰か手伝ってもらいたいということでした。長男JamesLeeは8歳、次男Vincentは5歳、双子の長女Angelaは5歳。 

疲れていた私が、大変な状態に行き他の人を助けることは、考えられません。子供が、ほとんどしつけられていない、お母さんは時々自分が分からなくなると言われていたら、簡単に仕事を引き受けていなかったでしょう。これも神様の不思議な計画のなかにあったと思います。 

長男と女の子の救いははっきりしていましたが、下の男の子は、同じぐらいはっきり救われていませんでした。ご両親はクリスチャンでしたけれど、物質的な考えが生活に見られました。お父さんは、ほとんど家にいません。でも、毎日曜と水曜近くの聖書的バプテスト教会に行っていました。 

私はピーチファミリーと一緒に教会に行ったりして、一週間、教会のNeighborhood Bible Timeという子供伝道で教え、5年生の子2人を導くことが出来ました。合同集会の時は、難しい5~6人の黒人女の子達と一緒に座り仲良くなれましたが、その後、彼女たちは教会につながりませんでした。 

その夏に「ハドソン・テーラーの障害と秘訣」(現在舟喜信に訳されている)を読み、同じ霊的ちからを自分のものにしたいと、強く感じ、それが自分のものでないと欲求不満で、読んでいた本を部屋の反対側に投げつけたのを覚えています。 

その夏のことを言葉で説明しようとするより、見せる方が早いかも・・・ 

*   ~   *   ~   *   ~   

「何、これ?」Venetiaはギャラージの壁から突き出ている小さな古い棒みたいなものをパチパチいじってみた。ん?何か小さなゴーっとした音が聞こえた?気のせい? 

どうやって分かったのか、覚えていない。あのレバー・スイッチは、玄関先の歩道下のモーターに繋がっていた。寒い冬は、車庫からスイッチを入れると、ヒーターはセメントの上の氷を溶かして、車から家に安全な道を平いてくれるものだった。 

そう、それ以外: 

・毛皮かけ定温室があった(ドアを開けると明かりが着く)。

・庭には人口池・川・滝。どうやってwater mocassinという毒蛇が入ったのか分からないけど、そこに数匹泳いでいた。お父さんは怒って銃で撃ち殺した。

・冷房された操縦部屋付きトラクター車は、毎月草刈りの為数時間レンタル使用されていた。

・セントラル掃除機、使用時、ホースを必要部屋の「コンセント」に差し込むだけ。

・子供たちが自由に使えるパーソナルサウナ室が1階にあった!

他にも色々あったけれど、この最後のものは、何と言っても不思議だった。子供はプールを喜ぶはずだけれど、サウナにびっくりした。3人低学年の小学生の子供が、水着姿で汗をかいて喜ぶのを初めて見た。「プールが欲しい」という言葉は、その夏、あの子供たちから、一度もきかなかった。何かながい話しがあるんじゃないかな・・・

ピーチファミリー,1978年 

ある日、運転しながら、Venetiaが急に具合が悪くなり始めました。最初は冷たい光が目に現れて、そしてとても眠そうに神経が鈍くなって、それと同時に何か追われているように、早く運転し始めました。 

Venetia?」(彼女の名前。) 

子供は何も言いません。この様なことを、何回も見たことがあったのでしょう。私だけは、パニックしてはいけないと、思いました。家に着くまで守られることを祈るしかありませんでした。Venetiaは頭をコックリコックリしながら車を曲がりくねった道を走らせます。 

無事家に着いたことは感謝でした。でも、Venetiaは、催眠術に掛かったみたいに、何が何だか、さっぱり分かりません。 

James, Angela, Vincent,(子供の名前)下の遊び部屋に行って遊んでいなさい。私がいいと言うまで上に上がって来ては行けません。」 

子供達は遊び部屋に送って、フラフラしているお母さんをベッドに連れて行きました。子供に話すように、ゆっくり眠るように言いました。目を閉じて、ぐっすり眠ったと見えると、下に行って子供たちを呼びました。 

「上がって来ていいですよ。」 

子供はお母さんにのことを聞かなかったし、お母さんもその日のことを話しませんでした。 

その夏は...色々ありました。息苦しい雰囲気だったので、手紙をいっぱい書いたり、聖句暗記をいっぱいしたりして、自分の精神的・霊的健康を守ろうとしました。お母さんと子供と仲良くなれて、下の男の子は、私が学校に帰る3日前、イエス様を信じました。 

本当に色々あったの。ある日、アイロンがけしている私の所に、8歳の長男が来て、「ジューン、これ、かわいそうでしょう。病気みたい。」と肘から指の先までの長さのヒキガエルを、両手で後ろ足を握って持ってきました。


(!落ちついたふりをした。)「ジェームズリー(名前)から逃げようとしなかったの?」

「そう、逃げなかった。」(私のところに持ってくる。) 

「じゃあ、やっぱり病気ね。かわいそう。元気になれるよう戻してきたら。」(私はアイロンし続けた。) 

「ホントにそうした方がいいと思う?」(もっと高く上げて見せている。) 

「だって、かわいそうでしょう。」(見るふりはするけれど、それだけ。アイロンから手を離すもんですか!) 

長男とコミュニケーションが開けたのは、この日からだったような気がします。アイロンがけは、別に好きではなかったのですが、ヒキガエルを診てもらえないかとJamesLeeがお願いしそうに見えた時、自分が急にアイロンがけをがしたくなったことを、覚えています。 

健康が守られて、本当に感謝です。いちばん困ったのは、頭痛です。午前中から頭が痛くなって、仕事が全部終わった時、私はアスピリンを飲んで横になったりしていました。夕食の支度まで休んでいいと言われていたのですけれど、そのように数時間よこになっていても、頭痛はよくならないで、少しも休むことができませんでした。こういうことは、夏の仕事が終る2週間前に始まりました。 

大学の勉強に戻ることは少し考え直してみた方がいいんじゃないかと、奥さんに勧められました。

2026年8月15日土曜日

TONIの悪夢

2年生になったとき、ニューヨーク市からルームメイトがいました。彼女は救われる前、麻薬を使ってL.S.D.まで使っていました。そのため、救われて麻薬を完全に止めても、時々恐ろしい悪夢を見ることがありました。 

ある夜中、トニー(彼女の名前)のベッドの方から血の凍るような悲鳴に目が覚まされました。でも、ベッドを見ると、トニーは、ぐっすり眠っているように見えます。 

ベッドに行って、トニーの顔が必死な表情になっているのを見ました。彼女の肩を軽く振って起こそうとしました。 

「トニー、トニー。」でも起きません。 

「トニー。」もっと強く振りました。「トニー!」 

トニーは、ハッと息を吸うように目を覚ましました。両手で顔を覆い、「ジューン、こんなこと、又あったら、スグ起こしてちょうだいね。」と言いました。 

ただの悪い夢ではなかったみたいでした。トニーは眠れないと行って、一緒に女子トイレ(明かりが着いている所)に行き、30分程、落ちつくまで、眠くなるまで、そこで話していました。 

トニーの夢の中で、亡くなったお母さんが急に現れ、トニーは、これは夢だと感じて起きようと考えたみたいです。普通、夢であることを意識するだけで自然に目が覚めるのですけれど、その晩、トニーは自分の夢から抜け出ることができなかった、死んだお母さんを目の前にし、夢だと知っていながら、起きることができなかったと、その時だした震えるような悲鳴に、私は起こされたのです。 

「だから、こんなことがいつかあったら、ジューン、スグ起こしてね。」とトニーは何度も何度も繰り返して言いました。彼女の目と声に現れた恐れは今も覚えています。 

トニーの罪は、完全に赦されています。でも、その歩みの中でひろった傷は、天国につくまで、なくならないでしょう。私のルームメイトをこのように苦しめる罪とサタンがたまらないほど憎くなりました。何の病も苦しみもない天国が好ましく、恋しく思うようになりました。

トニー 

夏休みまで1週間もないのに、学校が終わったらどこに行くか、まだわからなかったのです。どうしようと心配を口に出したとき、トニーは掃除機をかけていたのですけれど、笑顔を少し見せてくれて、こう言いました。 

「私、ジューンのこと、全然心配していないわよ。(「人のことだと思って」と、私はその時考えました。)神様は、ちゃんと教えてくれるから。だって、ジューンは何も出来ないんでしょう。ジューンの手が縛られているということは、神様の手がちゃんと動いているということだから、大丈夫よ。私心配しない。」そういって、掃除機の仕事を続けました。 

明日のための心配は無用です。

天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。 (マタイ6:34, 7:11) 

トニーは傷を拾ったかもしれないけれど、委ね切る信仰を一緒に見つけたみたいと、思わされました。

2026年8月14日金曜日

1978夏、長浜伝道

ボブジョーンズの一年目が終って、ジョイスとで沖縄に行くことになっていました。バプテスト・ミド・ミッションにMAPというプログラムがあり、大学生が宣教地に行きベテラン宣教師のもとで訓練されるのです。私たちもこのMAPで宣教の仕事をやってみたいと思いました。

ジョイスは、宣教師になって沖縄に帰る召しは、まだ受けていませんでした。沖縄の教会の助けになることを考えていただけです。実を言うと、両親の方から姉に、今年の夏に是非来てくださいとお願いがあったので、姉はやりたいことを、あとまわしにして、先に沖縄に行くことにしたのです。 

半年前(クリスマス辺り)に祖父(大城)が亡くなりました。この地上での最後の2年間は、神の子として暮らし、沖縄の親戚も証を見ることができました。そして、私たちの先に、デビー・イゲイの祖父・長田おじいちゃんに会いに行きました。ということで、今度沖縄に帰る時は、このおじいちゃんもいないということを知っていました。 

 

瑠美子ねえちゃん、ワーラ先生の長女 

代わりに迎えてくれたのが、長田おじいちゃんが導いてくれたまた従弟の瑠美子さん。神様のもとに戻ってきて3年になって、燃える信仰と明るい表情をもつようになって、神学校に行くことになっていたのです。その夏、ジョイス・ジャニス・シャロン(ワーラ先生の高校生の長女)・瑠美子さん・と自分で伝道チームをつくりました。 

父が長浜という小さな村の真ん中に古い空き家を直して私たちが住めるようにしてくれたので、そこに一週間泊まり、朝6じから夜10まで色々しました。村の子供たちに話をしたり、トラクト配布をしたり、紙芝居を見せたり、手紙・ノート・カードを作ったり、工作時間をもったり、子供のキャンプを開いたりしました。

長浜村の空き小屋を直してくれた

シャワーというものは、屋根にある井戸からホースでとったもの、お湯はありません。台所には、流し、ガステーブル一つ、と冷蔵庫。トイレというものは、地面に穴があり、蓋がされていた、田舎の便所。沖縄の夏の蚊はひどいので、一日中蚊取り線香を使い、夜は蚊帳の下に寝ました。台風のため、戸締りして、両親の家に帰らなければならないことが2回ありました。(沖縄の台風は、本土の大雨と強風と違って、外に全く出られない程の嵐です。) 

気温と湿度、生活ペース、考え方や言葉...ジョイスは4年間も島から離れていたので、環境の色々な違いに慣れるのが、一番大変だったでしょう。でも、そういうことは一つも尾聞きませんでした。ジョイスは高校2年の時に沖縄の三味線の弾き方を教わったので、夕方は、老人のいる家を訪問し、昔の歌を歌ったりして交わってきました。その三味線がなかったら、老人のいる家には入れなかったでしょう。 

特に長浜というところは、線香を箱に詰めて家に送るバイトをしていったからです。村の子供に「まことの神様ただひとり、みなさん早く信じましょう」と歌を教える私たちが、歓迎されるわけが、ありません。 

村でいじわるな子が5人いました。私たちが長浜に行ったとき、この子供たちは私たちの好意を自分だけのものにしようとし、他の子供を追い払っていました。真の神様、作り主、義なる神、救い主、愛の神...と教えながら、この5人は、すこしづつ変わってきました。 

他の子供に優しく声をかけて伝道所に誘ったり、自ら周りをきれいにそうじしたり、人の前でも祈ったりするようになりました。親の悪口ばかりする子が、お母さんが美人、お母さんが大好きだというようになりました。僕はイエスさまのような心が欲しいという気持ちを、あるおとこの子はお話を作って表現しました。 


長浜の光

この子供たちは、道徳的に変わっただけではありません。最初にイエス様を心の中に受け入れたので、聖霊が働いて子供達を少しづつ変えてくれたのです。数カ月で長浜の子供、特に問題だったこの5人を、深く愛するようになってしまって、島から離れることを、とても悲しく思いました。

2026年8月13日木曜日

ミッション・プレヤ・バンド(宣教祈り団)

学校が始まってから、ジョイスにも、ルームメイトにも強く勧められたのは、ミッション・プレヤ・バンド(これからMPBと略する)でした。月曜~土曜食後30分集まり、宣教師からの祈りの手紙を読み、祈っていたのです。ヨーロッパ、ラテン系(南アメリカ)、太平洋島々、共産党国、極東アジア、アフリカ、イスラム教国、スカンジナビア、と色々なグループがあり、重荷のあるところを選び、そこの宣教師の手紙を読んでいました。

夕食後、各宣教地からの祈りのリクエストを天に持ち上げる

私は極東アジアの方に行き、時々は父と母からの手紙が渡され、沖縄のために祈ることができました。ジョイスは既にこのグループのリーダー(手紙を整理したり、2人のアシスタントを毎週集めて祈ったり、「極東アジア週」のメッセンジャーと連絡をとった)になっていました。

シカゴ市で会った特別な家族のジャン姉は、ラテンアメリカのために祈っていました。卒業後、エッドと結婚し、私たち3人と同じ時にバプテスト・ミド:ミッションに入団し、2人はブラジルの宣教師になりました。 

私のルームメイトは、アフリカのトーゴという国に重荷がありましたけれど、当時、国の政府は、宣教師が国に入るのを許さなかったので、国の伝道のドアが開かれるようにと祈るしかありませんでした。卒業後、彼女はカリフォルニア州のクリスチャンスクールで3年間教師をし、その後、宣教団体から手紙を受けました。トーゴのドアが開かれた、宣教師の子供のための教師、できれば3年の経験のある人、が必要としているということだった。3年目が終ったら、彼女はすぐデピュテーションに入り、秋の学期がはじまるまでトーゴ共和国に短期宣教師として行っていました。

卒業時のディーニー

私は毎日極東アジアのグループと祈っていたので、後期からアシスタントをお願いされ、一年後、リーダーになっていました。もちろん、翌年、妹ジャニスがボブジョーンズに来たとき、MPBに紹介しました。ジャニスのそのときの3年生のルームメイトは、ノバスコシア(東南カナダの半島)の宣教師になりました。 

でも、この学生団体を通して宣教のビジョンが広がるだけではありませんでした。他の恵みを味わうことができました。

男性リーダー・アシスタント・と女性リーダー・アシスタント(合計約50人)は、水曜の授業後、夕食の前、45分程集まり、新しい手紙が様々なグループに配られました。宣教プロジェクトのことを考えたり、学生宣教の重荷とビジョンのために祈ったりしていました。大学のすごいペースの中で、この集まりと、食後の祈りの時間は、心を沈ませて、ゆっくり祈ることができたので、さばくの中のオアシスのように、何となく感じました。(他の生徒からもその意見を聞きました。)

MPBのリーダーたち(Jan Buiter見つけた?前列のジョイスは?)

ある人は、勉強の時間がもったいないと思い、こういうものに参加しなかったかのですけれど、私は、かえって、これが新しい精神的ちからを与えてくれるものだったので、勉強がもっとよくできたと思います。 

いちばん大きな恵みは、MPBの男性会長と選ばれていたジョーン・バーネットの模範を通して励まされたことです。(彼は3学期続けて会長として選ばれ、その後の学期も会長をお願いされていたのですけれど、他の人にさせた方がいいのではないかと、自ら会長を止めました。)このジョーン・バーネットという人は、救われる前、とても成功した、自信満々の、百万長者でした。全てを失い、神の前に遜らせ、救いと献身を知り、ボブジョーンズ大学に導かれた人です。その証はそこまでにしておきます。 

私がいちばん深く影響されたのは、ジョーンの御言葉の愛。1年のときに寮の先生に聖句暗記をすすめられ、それをどんどんし、ボブジョーンズにいる間相当変わったそうです(ジョイスは、この人の1年生のことを覚えていて、そう言っていました。) 

私の中2年のときのブラックストーン先生にまた会ったように感じました。ジョーンは以前の自信満々の姿は、見えません。みことばを心にたくわえる結果、彼はそのようなことを憎み、落ちついた喜びで輝いていました。 

少しづつ分かって来たことですけれど、ジョーンは、毎日数時間祈って、聖書暗記は章ごとにしていました。ジョーンの行動を見れば見るほど、私も同じようなちからが欲しいと

願うようになりました。 

共産党国特別集会の週、ジョーンは証をしました。昨年の夏、東ヨーロッパの国に行き、仕事を手伝ってみたことを。共産党の国では、もちろん、聖書は許されていません。しかし、ジョーンと宣教師は、国にいるクリスチャンに聖書を配ることになっていました。 

「聖書を持っているかどうか聞かれた場合、そのことを嘘はつかないと、最初から決心していました。」とジョーンは言いました。「神様は、そういう問題を乗り越えることができると、確信していました。誰にでもそうしなさいと、言っているのではなく、私自身がそう導かれたということです。」 

「でも、不思議なことに、聖書を配る仕事をしながら、その質問は、一度も聞かれませんでした。私が挨拶すると、アメリカ人と英語で話してみたいと、天気・景色・健康等の話をするだけでした。写真を写して友人に見せたいと言うと、笑顔したり、ポーズをとってくれたり、楽しくしました。」 

「聖書の中に、主が盲人の目を開いたことが書かれています。しかし、神様は、見える者の目を閉じることができると、私は信じています。共産党の国に入る時、聖書のことを聞かれたら、はっきり答えると決めて、聖書を隠したりすることもしないと、決心していたのです。聖書をそのままトランクに入れたりしていました。」 

「トランクを開けて中を見て、聖書が運ばれていることが分からないのは、盲人だけでしょう。国の境界線で、ガードマンが車一台一台を調べていました。違法の物が密輸入されていないようにと。ある日、前の車のホイール・キャップを外すほど徹底的に調べていました。これは時間がかかるかもしれないと、思いました。私たちの晩になると...」 

『アメリカ人?』

『はい。』

『酒は持っていないでしょうね。』

『はい。』

『たばこ?小型銃?』

『持っていません。』

『通ってください。    次の車!』

「それだけでした。」 

「境界線にちかづくとき、私たちは一生懸命祈りました。そして、ガードマンと一人が話しているとき、もう一人は、祈っていました。神様のすばらしい守りを、このように何回も見ることができました。」 

「最初は、ストレスで疲れましたけれど、神様の真のちからが少しづつ分かってきました。でも、つかれたのは、これだけではありません。」 

「聖書が禁じられている国に入ると、自分の聖書を毎日持ち歩き回ることは、もちろん、できません。悪の力に縛られた国に入る時は、心のちからのために、御言葉をとても必要とします。でも、その状態におかれたクリスチャンの助けとなるのは、心の中に納めた聖書ーーそれだけです。心が痛むとき、サタンの攻撃に圧倒されるとき、困難・混乱にぶつかる時ーー暗記した聖句だけなのです。数週間だけで、霊的にとても疲れます。」 

「僕は、数年前から、御言葉を心にたくわえようと努力し、かなり覚えてきたと思います。それでも、もうすぐでだめになっていました。」 

「みなさんは、どうでしょう。そのような、聖書が手に入らないような状況に置かれたら、『心の聖書』は、どのくらいあるでしょう。あなただったら、どのくらいもつと思いますか。数週間?数日間?数時間?」 

心のたくわえにしていたつもりだった 

ジョーンのことばにグサッとさされる様に感じました。ジョーンは自分のことを高慢になってそう言っていたのではないことが、はっきり分かりました。本当のことを言っているだけ。御言葉に対しての愛と必要性を伝えようとしていただけ。

御言葉を自分の命としたい。集会後、ジョーンにこの願いを話しました。そのとき、やさしく、教えてくれました、そのような願いがある限り、絶対絶望されはしないと。御言葉が心のうごきとなるときこそ、人はイエス様の姿に変えられていくのだと。自分の聖句暗記の仕方も少し見せてくれました。 

「もちろん、これは私が使っている方法。ジューンも、自分のいちばんよく効く、役に立つ方法を見つけて、始めたらどうですか。後悔しませんよ。」と励ましてくれて、一緒に祈りました。

MPB会長John

中2年のとき始めた聖句暗記のノートを見つけ、新しく始めました。ヤコブ書4章から。次に3章。そして2章。1章。最後に5章。何回も何回も復習し、マスターしたと思ったら、ピりピ人への手紙を始めました。

私があなたががに話した言葉は、霊であり、またいのちです。(ヨハネ6:33) 

私はあなたの御言葉をみつけだし、それを食べました。あなたの御言葉は、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ15:16前半) 

このミッション・プレヤ・バンドが与えてくれた宣教の重荷とビジョン、精神的ちからと聖句暗記から来る霊の活気を大きな恵みと思っています。主に感謝せずには、いられません。

2026年8月12日水曜日

食い尽くされた年々

「かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごがくった。」(ヨエル1:4) 

「失った」数年を、このみことばのように考えることがありました。のこされたものはない、と。前期は、この様に、周りの「霊的巨人」を見て、自分のことを、落胆するだけでした。 

でも私もなんとか頑張りたいと、思い、一生懸命勉強しました。朝は5時半に起き(それ以上早く起きてはいけないという規則があったのです)、デボーションを済ませたら、勉強をしていました。スポーツもクラブ活動もいっぱいし、とても忙しくうごき回っていました。 

学生食堂(6000人用)でのアルバイトを始めていましたけれど、ある日、学生援助事務所から手紙が届きました。 

「あなたの母教会から手紙が届いて、あなたの一年分の学費を全部払うと言っています。」 

経済的必要のある、アルバイトを探している生徒が他に大勢いるので、私は1年目は仕事を休むことにしました。 

それでも忙しかったのが覚えています。何も忘れないように、いつもノートにメモし、そのノートを自分のあたまより大切にし、持ち歩きまわっていました。 

ある日、昼のバイトを倍の仕事を済ませ、次の体育の授業の為に着替え、少し時間があったので、ちょっとよこになろうと思いました。部屋は体育館のすぐ隣、10分まえのベルで向かっても、時間は十分にあるはず。 

ベルがなって目を開けた時、部屋に入って来たルームメイトは、この時間ここにいるはずがない。 

?...ということは...時計によると、自分は、どうしたことか、授業前のベルで起きず、ずっと1時間眠り続けてしまったのです!授業開始のベルも聞こえなかったみたい・・・ 

どうしょう。体育館に走って行って、そこの先生に必死に誤ってきました。幸い、彼女はボブジョーンズ卒業生、自分もアルバイトで死ぬほど疲れる経験をしたことがあって、理解のあった「叱り」でした。 

「部屋にいたルームメイト」に話してみました。(ボブジョーンズに来たとき、部屋にいたディーニー姉でした。) 

「ジューン、いつになったら気がつくかなと、思っていたのよ」と、彼女は言います。「朝の5時半から夜の11時まで忙しくして、このままは、絶対続かないと、思ったの。でもジューンは1年生の私そっくり。私はネ、先輩に忠告されたのだけど、聞いて聞かなかったのよね。いまのジューンのように疲れで倒れるまで。」

「1年生の私にそっくり」

言ってもわからないだろうと思い、私のために祈っていたと彼女は話してくれました。勉強のペースを調節すると、いうのは、神様をまず第一にし、知的必要も神様に求めることだと教えてくれました。十分な休みを取ることは、御心の一つ、クリスチャンの責任だということを分かち合ってくれました。そのときからは勉強の時間を減らして必要な休み・遊びをとることにしました。

十分に勉強できるようにと神様に祈ったとき:勉強時間が少なくなると思ったのに、あたまの回転が早くなったり、中断されることが少なくなったりしました。少ない時間にできるだけ多くの勉強ができるようにと祈るようになり、肉体的にも、精神的にも、楽になりました。そして、ルームメイトのアドバイスに従った結果、成績もよくなりました

最初の日、このルームメイトに会ったとき、時間がいっぱいあったので、彼女は私の証を、涙を流しながら聞いてくれました。私のことを、関心をもって愛してくれているのだと、その日すぐわかりました。

失った3年間のことを暗く思っていた私は、後期の初め頃、もうひとつの御言葉に目をとめました。

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、噛みつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食いつくした年々を、わたしはあなたがたにつぐなおう。」(ヨエル2:25) 

そのとき感じました。時間を失ったと思って悩んでいた私は、もう心配しなくてもいいと。神様はそのときの失敗を赦してくれただけでなく、損したと思っていたところも埋め合わせてくれる、と。

 

大学1年生

周りの人からーー素晴らしいクリスチャンからもーー目を離して、過去の不幸を良しとして下さる主を見上げるようにと励まされ、新しい希望をしっかりにぎることができました。

私は...この1事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み...一心に走っているのです。(ピリピ3:13,14)


斎藤ネコちゃん

郡山市で私の子供2人を出産し育てました。布団生活しか知らない日本人には、添い寝は自然かもしれませんが、米国では、ベッドを使って、赤ちゃんはゆりかごやベビーベッドに寝かせたりして、添い寝の習慣は、ありません。 私は恵美と初めて添い寝をして、好きです。娘が言葉を覚え始めたとき、寝るま...